2009年8月31日月曜日

細心の気配り


おはようございます。昨日は台所の出窓の屋根は雨が強いと雨だれの音が早くなり、夕方8時に雨が弱くなると、雨だれの間隔が間遠くなってきていた。
今日は関東大震災の日で災害予防の日で、避難用具の点検や乾パンや飲料水などの交換が必要だ。「災害は忘れた頃にやってくる」と寺田寅彦がいっていたが至言です。

平成おとぎ話:河合隼雄より

本当の芸術家は歌詞の一言一言にも心が行き届いている。何気なく歌っているように見えて、どれほど細部のひとつひとつに心をつかっているか。
フィッシャー・ディスカウが、このように歌うのだと生徒に歌ってみせ、生徒が歌うことによって生徒に教えようとしているのは、その「歌い方」を真似ようということではない。自分が歌っているような「たましい」を」もって、生徒が自分の歌を歌うように、ということなのだ。先生は言うならば、シューベルトのたましいを自分はこう感じているのだと伝え、それを受け止めることが生徒にとって大切なのであって、先生の行為を真似してもはじまらないのだ。
 日本の教育はこれまで知識を早く伝えることに熱心すぎたのではなかろうか。その一番てっとり早いのが、すべて先生の真似を上手にすることである。先生のほうも、こうするのが正しい、こうすれば能率できる、というのを教えるし、生徒はそれを早く真似するほど「良い生徒」ということになる。
しかし、本当の教育において、先生が生徒に「伝える」ことはそういうことではない。
私は「シューベルトのたましい」などというものが伝わるものなのか。それはどうしたら伝わるのか。
フィッシャー・ディスカウのテレビ番組をみて河合さんは理屈ぬきで「たましい」が伝わるのが実感できたそうです。
彼の顔、仕草、それらすべてが「たましい」を伝えるために総動員されている。人間が生きているということ、人間が歌うということ、それがどんなに凄いことか、それはフィッシャー・ディスカウという存在が直接的に伝えてくれる。ほんの少しの強弱、長短に配慮がむけられ、フィッシャー・ディスカウはいちいち注意する。その細かいひとつひとつを通じてたましいが伝わっていく。

宝塚


おはようございます。女の姉妹がいないので、その関係はよくわかりませんが、お袋がよくいっていたのは、男の場合、かけてある服装は黒っぽいものばかりで、地味で面白くないと
いっていました。宝塚は尼崎にいたころ、労音でオイストラッフのバオリン演奏会でいったことがありました。大阪で中学の同窓会の女性連中だけは途中からここに行くとイソイソと出かけていました。

畑田国男:妹の力より

女の園これを構成する団員もおそらく女系家族出身者という仮の前提の説明だそうです。
「いい嫁を探すなら宝塚で探せ」といわれている。宝塚には舞台人を育成すると同時に、
一般の家庭人としても立派に通用する女性を養成するという側面もあるそうです。
宝塚はスターへの登竜門でもあるが、大スターになれるのはホンの一握り。大半の女性は宝塚OBのハクを土産によりよい結婚に走るのである。
「妹」は大スターを目指し、「姉」はそこそこで舞台からリタイアしている現象からも、姉には良妻に満足し、賢母の人生を歩むシーンが見て取れる。

【団員の兄弟・姉妹の内容】

男兄弟しかいない女性  115人(32.0%)
女姉妹がいる女性   181人(50.4%)
ひとりっ子      63人(17.5%)
(昭和40年から63年のスター級359人の「姉妹型分類」より)
「妹」が宝塚に興味をもったのは「姉」が宝塚を好きだった場合がほとんどである。
姉妹そろって、宝塚ファンだったが、「姉にすすめられて受験したら受かってしまった」というのが、「妹」サクセスストーリーの典型だ。姉は批評家で、妹はアクトレス。これが親子というよりも擬似姉妹のパターンである。
一方姉が宝塚に通うケースでは母の存在がおおきい。何時までも若い母、気が若くて姉の様な母、姉か友達のような母、こんな母の応援を受けて「私」は宝塚を受験するのである。
母親が姉に相当し、長女である私はいわば「妹」という構図である。
一人っ子が多い(63人=17.5%)という現象も姉妹のパターンだ。
同じ一人っ子でも、男の子だと、母親は厳しさを忘れ、つい過保護,過干渉におちいって、我が子をマザコンに追い込んでしまうケースがよくあるが、女の子だと上手に育てることが出来る。
母と娘の関係は、限りなく「姉妹」に近づくことが可能である。まして、長女でもある「一人っ子」と母の年齢差は少なく、この擬似姉妹は一層、姉妹に近い感情を共有できる。

2009年8月30日日曜日

犬と尊敬


おはようございます。朝の犬の散歩は男性が多いが、夕方や夜は女性が多いようです。大体犬の気ままにさせている方が満足しているようですね。わが家でも、結婚当初、茨城県の牛久市に住んでいた頃は
次郎という犬を飼っていました。松戸市にマンションに引っ越すときに飼育は駄目ということで、やもうえずお世話になった獣医さんにお願いしたら、引き取り先を世話してくれました。ところが1週間ほどして、隣家からの知らせで次郎が戻っているよという、隣家にお願いして引き取り先に連絡して戻してもらました。次郎は生後1週間の子犬を畳屋さんから頂いた柴犬の雑種でしたが、可愛い犬でした。

楽老抄:田辺聖子著・集英社より

ある新聞の投稿欄に「わが犬ながら、私は尊敬していた」と書かれており、私まで粛然として襟を正してしまった。そのような犬、「尊敬」せしめるほどの犬とはどういうことだろうと思っていたそうです。

犬好きの女性が集まった席で、好まれる話題「犬と男とどちらがいいか」――といのがあるそうです。
このテーマは奥が深いそうですが、
犬は食べ物のえり好みをしない。犬はつないでおけば彷徨しない。犬は稼ぎこそしないが、夏冬同じ着物で不平をいわない。犬は相談相手になり、かつ励ましてくれる、というのだ。
犬に<どうしようね、ジョン>などと話しかけると、つぶらな眼をじっとつけて、<あなたの思っているようにしたらいい、それがいちばんだよ>と示唆してくれるそうです。<つらいことばっかりなんだよ、ピコ>と涙を流している人には<元気だして>というように女の涙をなめてくれる、というのだ。
<男がこんなことするかよっ>
と女性達はいきまいた。結局犬は百パーセント情をかえしてくれるが、男性は10パーセント位しかかえしてくれぬ、男は犬より劣る、という結論になった。しかし彼女らにいわせると、「尊敬」に値する犬は、これちょっと困るナアということであった。

2009年8月29日土曜日

ほうとうの話には本当はない


おはようございます。河合隼雄著:平成おとぎ話:潮出版社より→ほらふきのお手本のようです。


河合隼雄さんはホラを吹くことはまえから有名で、日本ウソツキクラブの会長であることも大分知られている。その上ホラだけでなく、笛(フルート)をふくことも知られている。
 
『アメリカのテキサスA&M大学で講演があり、その講義録を書くにあたって、その大学のローゼン教授のご自宅に滞在させてもらった。
彼はアメリカ人らしく、「ワシントンと桜の木」の話の如く、「正直」を大事にする人である。
彼がいうには私のことについて「河合はすぐれたユーモア感覚の持ち主であること、執筆の合間に笛を美しく演奏する才能をもっている人だと」とこの講義録の序に書いている。
ところでローゼン邸でフルートを吹き始めると、たしかに 小鳥があちこちから飛んできて、木の枝に一列に止まり、なにやらさえずりはじめる。これには私もうれしくなってしまった。わが家でも庭に木もあるし、小鳥もくるが、小鳥が寄ってきたりすることはない。
こうなると、日米の文化比較までしたくなるのですが、講演のあと、アメリカの聴衆はそばによってきて「いい話を聞いてとても参考になった」とかいろいろほめてくれて握手をもとめてくれる。とすると、小鳥までも違うのかなと思ったりした。

こうなると私はとてもうれしくなったので、窓をあけて笛をふいた。といっても
二重窓だったので、開けるのに、少し苦労した。そして吹き始めると、小鳥のさえずりは一層はげしくなり、ついに小鳥の一羽が室内にまでとんできて、私の耳元で囁いた。「フルートを吹くときは、窓を厳重に閉めてください。辛抱できませんので」私はさすがアメリカの小鳥は気持ちを率直に表現するものだと感心した。』と。

2009年8月27日木曜日

妹の力


おはようございます。親の姉妹(兄弟)の扱いにこうも差があると思っている人がいることは珍しくないようですね。
お姉ちゃんだから我慢しなさいなどと。

畑田国男:妹の力・社会学:コスモの本より
「妹」とは姉妹の「妹」だけでなく、兄妹の「妹」、および、大勢のきょうだいの「末っ子」をふくむ「妹型」の人間の総称である。
秋田県・金浦小学校3年生(昭和63年当時)田中美希さんの「妹と仲良くしたい」全国の「姉」型女性にとって、涙なくして読めない作文コンクールでの「文部大臣賞」を受賞した作品である。サンタクロースにもらったジェニー人形を妹にとられたことからケンカが始まった。
お母さんは「わたし」を叱り、いつもの言葉でこういうのだ。
「美希は3年生だよ。千香のお姉ちゃんでしょ。反省しなさい」妹に味方するのはお母さんばかりではなかった。「お父さん。美希をうらの小屋につれていってくれ」の言葉で、「わたし」を叱りに参戦する。
お父さんはめがねといっしょに目をつり上げておこった。妹にはあんなにやさしいのに。
小屋でさんざん怖い思いをした後、しばらくしてやさしいおじいちゃんがカギをあけてくれた。家に戻ってみると、「妹はずうずうしくて、テレビの前にでっこりすわっている。」お父さんとお母さんは、ここでさらに「わたし」にあやまらせようとする。「わたし」は妹にあやまり続けるしかなかった。
翌日も妹のことが頭から離れず悶々とすごす「わたし」であった。
お母さんに「なんできのうわたしだけおこって、千香をおこらなかったの」「美希はおねえさんだから」この呪文を何百回聞かされたことか。

お母さんが姉である「わたし」の気持ちをわかってくれないのは、お母さんが「妹」型人間だったから。「わたし」のことをわかってくれるのは、お母さんの兄であるおじさんのほうだ。」という真理に気がついた。
「妹」には永遠に「姉」や「兄」の気持ちなんてわからないということを訴えたい。しかし私母はに謝ったあとで、千香に「お母さんをおこらせないようにするには、かんかしないんだ。だからケンカはやめよう、千香」
美希の気配り、目配りは家中にゆきわたっている。

「上厳下甘の法則」
①一日も早く大きくなって、立派な人間になって欲しい=厳格
②いつまでも可愛い子供のままでいてほしい=溺愛
相反する2つの気持ちをもっている。
子供がひとりしかいない場合は、厳格さと溺愛ぶりが同居している。
子供が二人になると、前者①の厳しさはは第1子の兄か姉に、後者②の甘やかしは末っ子の妹か弟に。
時を越え、国境を越え、人類を越え、猿などの「家族」という形態にとって生活する生きとし生けるものの子育ての原則である。
姉(兄)はウルサイと叱られ、妹(弟)はカワイイと誉められる。

父母の子供に接する態度は確実に変化してゆく。子供の生長とともに、両親も年をとる。年とともに厳しい躾けをどこかに置き忘れ、根気もなくなり、正直いうと子育てに疲れ、面倒くさくなって甘やかしでお茶を濁してしまう。姉には厳しく、妹には甘く。

琢摩都立大教授が約300人にアンケート
結果(兄・弟・姉・妹の4人の子供をもつとしたら、
姉は、落ち着いていて、控えめで、世話好きで。
妹は、おしゃべりで、ちゃっかりしていて、甘ったれでわがままで・・・・。
しかしもっと素晴らしいところは、
姉には「許される性格=なし」
妹には「期待される性格=なし」
これは息を飲むような大胆な結果である。男の兄・弟についても、これに似た傾向は認められるが、ここまではっきりとした形にはなっていない。妹は期待されない性なのだそうです。

2009年8月26日水曜日

運が悪い?


おはようございます。梨を食べるころになると、夜道の茂みの横は夜空全体に届かせるためのようなの音で懸命にないています。涼しいので今日は良く寝られました。


目からウロコの「心理学」斎藤勇著:PHP研究所
外交的・内向的、どちらも外交的な人を好む。

大学生の自己概念の構造
順位:米国                   日本
   好まれる性格   嫌われる性格       好まれる性格   嫌われる性格

1   誠実な人    ウソつき        思いやりのある人   ずるい人

2  正直な人    いかさま師        誠実な人      人をさげすむ人

3  理解ある人    下品な人        やさしい人    卑劣な人

4  忠実な人    残虐な人        きさくな人    傲慢な人
           
5  真正直    正直でない人       寛容な人     ウソつきな人

米国では誠実で正直なひと、日本は思いやりがあって誠実な人というように甘ったれのところがあるといえるかもしれません。

「運の悪い人」は、幸運も不運と思いこむ。ものは考えようということが言われますが・・・・・・
  不運にも挫折ばかりくり変えてしまう人がいる。決まって問題が発生してしま。成功の目前で急に体調を悪くしてしまったり、通常ならありえないようなトラブルに巻き込まれたり・・・。
一見どうにもならない偶然の積み重ねのように思えるが、実は本人の無意識の心の在り方が、次次不運を引きよせているケースが多いのである。不運な人はたいてい「自分は運がわるい」「思いこんでいる。不運な人が不運なのは、この思い込みが悪影響を及ぼすからである。何か行動するとき、あるいは何か行動するとき、あるいは成功しかかったとき、「また何か悪いことが起こるかもしれない」という思いが頭をかすめ、躊躇する。躊躇しながら行動を起こすと、事はうまくいかない。そうして「やっぱりダメだ」と落胆する。また迷った挙あげく行動を起こさなかった場合は、行動を起こしてチャンスをつかんだ人をみてこんなふうに呟くだろう。「やっぱり運が悪い」と。迷いが迷いを呼んで、このような状態が延々と繰り返される。それでもたまにはラッキーなことも訪れる。しかし、自分が不運だと思いこんでいる人は「この幸運は、不運の前ぶれかも知れない」と疑心暗愚になり、せっかくのラッキーを生かすどころか、戸惑ってしまう。
◎幸運に気づくかどうかで人生は決まる。例えばデート中にいきなり雨が降ってきたとき、「ああツイていない。最悪だ」と意気消沈してしまう人もいれば、「雨の中を2人で歩くのってロマンチックで素敵」とウキウキしてしまう人もいる。楽観的なもののとらえ方をする人は、たくさんの数の幸運に気づくため、ますます幸せを感じることが出来る。
◎原因の帰属:例えば失敗など自分に起こったことについて、何が原因だったか考えることである。そのとき人によって、自分が悪かったと考える人と、周りが悪かったと考える人がいる。自分が悪かったと考えると、あまり悲観的にはならないのであろう。同じ失敗でもとらえ方によって深刻になったり、ならなかったりするのだ。実は運のいい人、悪い人は自分で決めているのである。そのことに気づけば、不運な人から脱出できる。

2009年8月25日火曜日

頼み事には


おはようございます。人に頼むことにも心理学の応用があるということです。
頼みごとは2段階に分けると効果的!(目からウロコの心理学・斎藤勇著・PHP研究所より)


「助けを必要とする少年少女のためにボランティアで毎週2時間ずつ、2年間にわたって手伝ってくれませんか」しかし誰もこの頼みを聞きいれなかった。これは2段階要請法の第一段階であって、断られることを承知の上で予定の依頼なのである。
最初は断られるよう大きな要請をわざとするのである。大きな頼みごとを断られて直後、断った直後に、すぐにこういう「では、この同じ少年少女を1回だけ動物園に連れて行き、2時間を一緒に過ごしてもらえないか」このように頼んだところ、約半数が応諾した、これが本命だとしたら、頼みは結局聞いてもらえることになる。
一方最初の大きな頼みごとをせずに、第2の頼みだけを他の学生にしたところ、承諾したところ、承諾した人数は前者の学生の半分しかいなかった。
大きな頼みごとを聞いた後で小さな頼みごとを聞くと、小さな頼みごと聞くと、小さな方がより小さいように感じられる。これは知的な対比である。しかし、頼みに応じた本当のメカニズム
は、頼まれた大きなボランティアを断った罪悪感である。断った罪悪感があるところに、
申し出される小さな依頼は罪悪感を依頼者の大きな頼みごとの後の小さな頼みごとは依頼者側の譲歩とも見てとれる。譲歩には譲歩でなければという心理も働くのである。
しかしこの2度目の頼みごとは同じ人からのものでなければならないことになるそうです。

但しこの記事はまだ実際には試していません。

※立正大学心理学部教授