2008年6月30日月曜日

発見の種はいつも漂っている。


発見の種はいつでも漂っている。

東京経済大でノーベル賞を受賞した白川英樹博士の講演がありました。会場は大盛況でした。
時々説明に利用するPCが不調で動かなくなったり、難しいことをどうやさしく説明したものかと躊躇することもあったが、それでも名司会者が博士に継続を促し励ます場面もありました。。
①博士は東京工業大学で研究室に残るときに希望するところに希望者多く、抽選となったところ7名のうちの1名だけの外れになったがこれが先ざき発見の種であった。
②研究中に弟子が失敗した、これは何故失敗したのかが既成概念を壊す元がはいっていた。
③この元を研究し、通念では粉にしかならないというポリエチレンをフィルムにし、ノーベル賞を共に受賞した米国のマクダイアミド博士が評価し、米国にわたり、プラスチックに電気が通ることへの端緒を切り開いた。
講演の要旨は
発見の種はいつでも漂っている。何か別のことをやっている途中、偶然に起こることを簡単には見逃さない。旺盛な好奇心をもて。よく観察・よく調べる・よく記録・既成概念を疑うが必要です。自分の専門外のことにもとらわれない目を育てるためにもよく遊べと。ニュートンも、レントゲンも、フレミイングノ「ペニシリンもワットの「蒸気機関」も、コロンブスの新大陸発見(新航路発見の目的でいつもとは逆回り)だったことも偶然であっても「緊張した目」が見つけた。
 DDTやはりノーベル賞を受賞したものでしたが、現在は危険性があることで使用されていないが、
アフリカで蚊の退治にもつかわれなくなったので、諸病が広がっているとのこと。むしろ害は小あるが
大なる病気を取り除けるには有効ですとのこと。薬も毒にも薬にもなるので科学は人間や自然も考えて使い方も踏まえての教育が要請されるとの講演でした (除虫菊もよいという話も聞きますが)。
数人子供を連れてきた母親の姿も見えました。
白川英樹博士については下記をhttp://www1.e-science.co.jp/shirakawa/index.htm

暗闇は想像力の世界






武蔵野大学公開講演。童話作家廣田衣世さんのお話(武蔵野女子短期大学・文科国文専攻(平成4年卒業)
暗闇は想像力の世界:
PCで調べればほとんどのことがわかる。手軽にPCに入るまえに、不思議の方向に目をやってしばらくしてPCに向かうのでも遅くはない。アホで楽しく暮らすのも悪くはない。
うまれは島根県では安来節で有名な安来市に住んでいる。宍道湖・松江と米子の間に位置する。
神話の世界の出雲や世界遺産になった石見銀山もちかい。銅剣が358本も一か所で発見された荒神谷遺跡もちかいし古代色の濃いところです。そういえばあの小泉八雲は松江に住んでいた。

最初の不思議体験:姉・兄の次は末っ子の次女にうまれ、どうしても弟が欲しかったがかなわず、名前をクマタロウというパンダ人形と寝起きをともにしていた。ある5歳になった朝、枕もとにクマタロウがいない、パニックになっていたが家族の誰に聞いても分からない。近所の下山神社にお参りして見つけてくださいと必死に祈った。翌日いつも通る道と反対側の道はスグ線路で柵もなく危ないからけしてとおってはいけないよといわれていたが、何故か引き寄せられてその道を通って神社の前にくると、思いもかけず、神社の狛犬の頭の上にクマタロウがのっていた。
2つめの不思議は中1の時はコワイ話のブームであった。毎日コワイ話をしていたが、とうとう種がつきて、自分が作った話をそれといわずに披露した。神社の石段にユウレイがいた。それはおばあさんで、防災ずきん・モンペ・手にはヤカンをもっていたのが消えてしまった。翌日幼馴染のレイコちゃんとサナエちゃんも神社の石段でそれを見た。これをレイコちゃんが書いた作文が全校の作文で最優秀にえらばれて、ますます嘘だったという機会を失った。
それから何年かしてPHPという本で募集の怖い話の裏話に応募したところ、マサカの最優秀に選ばれた。こうなると、幼馴染みのレイコちゃんにも釈明の電話をしたところ、こちらから何も言わない内に、レイコちゃんが電話をとって開口一番、「昨日サナエちゃんとお茶を飲んだ。ところがあの幽霊の話が二人の話にでて盛り上がったの」という。
「実はね、あれは私が作った話なの」「そうなの、私も謝るわ。幽霊が階段で消えた筈なのに、私は階段を越え、御堂の中に消えたという作文にしたの。ごめんね。」と互いに詫びた。
 子供は理屈をつけて記憶に残す;
 ●鼻水はどこから→脳が解けたもの。→そう思った坊やは必死にすすった。
●電車やバスのアナウンスの声の人はどこに隠れているの→あの薄い天井に隠れるには「ノシイカ」みたいに薄くなるのは大変だろうな。
●父やおじいちゃんの喉ぼとけ:梅干しの種がひっかっかたものだろう。そう思ったので大人になるのには梅干し嫌いの坊やが努力して沢山食べた。
こんな話を集めてメモをしてネタに生かす。
不思議は表現できないが、感じるだけ。こんな話が沢山でてくるし、このような話と昔話を融合し不思議な世界にトテモ敏感で新しい話を書いている。
福島正美記念SF童話大賞審査委員、小川未明文学賞優秀賞受賞、毎日新聞「よんであげて」に連載。ラジオ毎日放送「童話の散歩道」
東京で内定の仕事があったのに、コマーシャルでのどかな田園風景をみてヤッパリ田舎がよいと得心した。一日2時間はボーッツとしないと死んでしまう。ところがいなかに戻っての仕事が9:00から25:00までのかなりハードな仕事でした。夜道の帰宅であの世に逃げたいというところまで追いつめられた。
Y字路の中央部分で突っ込みそうになったのをある人の警笛でフトわれに帰り、これは危ないと思い直して、その仕事を辞めた。
毎日涼しい図書館通いが始まり、受験生のよこで本を読んでいた。2人の恋人同士のアツイ会話が耳に入ってきた。このイチャイチャ振りに触発されて「縁結び」につての童話を書きだした。その年島根県に震度6強の地震があっったが、本棚から落ちなかったのは「縁結び」の原稿だった。
そうこうしている内、この応募は1・2次審査なしに本審査の発表だった。ところが審査結果も届いていないのに、楽天的な広田さんはなぜか分らないが、洋服屋によって「表彰式があるのでスーツをください」「どなたのですか」「私のです」と買ってしまった。家に帰ったら、幸いにも「おめでとう」の電話が入って胸をなでおろした。このように素直に不思議だとおもうことが大事なあと思うそうです。暗闇の世界はポットン厠、これが恐怖心をもたらすが、そこには想像の世界が待っている。
出雲の国は白か黒の2者択一の世界の一神教ではない。貧乏神もあれば福の神もある(お守り同士も喧嘩する。)
水の神でもあるし、妖怪でもある2面をもった河童の話を集めるのに、岩手の遠野物語の小川で一日中「河童よ出て来い」念じていた。童話の構想を膨らますのに、場所を選ぶのですね。最初から否定したら、不思議の世界の扉はあかない、同じ人生ならもしかしたらと考えることが無限の世界に遊べるのですと結んだ。

2008年6月28日土曜日

川田龍平参議院議員は訴える




厚生行政を根本から変えたいと川田龍平参議院議員は鋭意訴える。
薬害エイズにとどまらず、C型肝炎、インフルエンザ治療薬のタミフルなどの薬害による被害の問題が繰り返されている国の厚生行政の仕組みがなにも変わっていない。医療費のカットにより、治療がうけられなくなっている。立候補したのは公的制度でしっかり安心した暮らしができる社会にしたいというのが動機である。すごく励まされたのは、薬害エイズのときも実名を公表した時もそうでしたが、家にひきこもっていた人が「街頭演説を聞きたくて出てきた」という人がいたり、「演説を聞いてすごく元気になった」と手紙をくれました。人に励ましを与えたり、希望につなげたりすることができたということは喜びでした。1995年実名を公表したときに、富塚学長が東経大の全学に紹介してくれたそうですし、大学が受け入れのための勉強会も開いてくれた。1996年には裁判の和解が成立したことから、教職の勉強に入ろうと思っていたが、全国から講演の依頼がおさまらず、そのご98年には休学し2000年までドイツのケルンで勉強した。同じ敗戦国なのに、なぜ豊かさに違いがあるか、実際に暮らして確かめようと思った。ドイツでは戦争責任、薬害エイズは国の責任、官僚の責任など国の責任についてはなるほどという納得がいった。日本のよいところは憲法9条に代表される考え方は世界に誇れる考え方だと思いました。ドイツからもどっきて東京21区の衆議院に当選した母の議員秘書もやっていたのですが、次の選挙で母が落選した時には、運よく松本大学で講師をやる道がひらけた。都会である東京やケルンにくらべ、長野の松本では、終電を気にせずワイワイ先生や学生と地域に溶け込む大学作りなどについて語り合えたのも貴重だった。31歳の若さでの当選とは東京選挙区で、無所属で参議院議員に当選したのは市川房江さん以来42年ぶりだった。参議院では無所属でも質問の機会が数多く回ってくるところが衆議院と違うところ。第一希望としての厚生労働委員会(年金、福祉、薬害、労働問題)は倍率がたかく、同様に大変な問題である環境委員会に入った。
東京経済大の同窓会誌NO320:20年1月号

2008年6月27日金曜日

講談を生で聞く 、「命をかけて守る」


講談を生で聞く ;おはようございます。半夏生が恥ずかしそうに自分の葉をしろく化粧しています。講談:徳川家康が人質で相当の苦労を経験したころ:池の鯉を取るもの厳罰に処すと立札をたてた。ところが人はやっていけないことをやってみたくなる。そんな気持ちがあって、2名の足軽(立派な名前を失念)がこっそり鯉を捕獲して食べてしまった。やはり悪事は露見して牢獄にいれられ何日かの後には打ち首ということになった。鈴木久衛門という世に聞こえた豪傑の家来が家康にいた。家康は中庭に信長から拝領した30cmもの鯉2匹を飼っていた。これを大事にして、それに鯉を呼ぶに手を打っては餌をやることを楽しみにしていた。その庭に鈴木がやってきて、庭仕事をしている男に「殿と将棋3番をやって全部勝つことができた。褒美にこの鯉を捕らす」のありがたい言葉をいただいた。「そこであの鯉を頂戴してゆく」といった。その庭番は鈴木に何か証拠をお示しくださいと再三再四たのんだ。「武士に嘘偽りはない」という豪傑の鈴木に圧倒されて渡してしまった。鈴木はそれを膳所にもっていって、まな板にのせ料理番の本多に鯉の包丁裁きを依頼し、いままでの経過を話した。膳所で働いている連中もあつめ、酒樽もあけて大変賑やかな酒盛りになった。そうした状況になっていた時に、家康が中庭の池に降りて何度も手を叩いて鯉を呼んだが答えず。小姓を通じて庭番に聞いて事情が分かった。なにやら騒々しい膳所の声を聞きつけた家康は小姓に調べさせた。帰って来て報告を聞いた家康は鈴木を呼びつけた。「そのほう、何か訳でもあるのか。」顔は怒りで朱色であった。鈴木はなにも釈明しない。そのほう蟄居せよと鈴木を帰した。家康もじっくり考えた挙句思い当たるフシを思い起こしたのはさきの足軽のことへの諫言かじっくり考えた。再度鈴木を呼び出した。鈴木曰く「お殿様は大馬鹿でござる」。家康はあの足軽の処罰の件かと尋ねる。「人間と鯉と天秤にかけてどちらが重い命でしょうか。決死で戦をしている家来の大事な命、それもわからないお殿様は大馬鹿です。・・・・・・それがおわかりいただけるものならば、足軽を許してください。しかし手前の罪は重うございます。切腹してお詫び申し上げます。」  そこで家康もその命かけの諫言が胸に響いて足軽は無罪放免、鈴木には千石の加増の沙汰をした。後年の戦で家康がかなりな数の敵に囲まれ、逃げ道がなくなったときに、あの足軽二名がどこからか駆け寄せて、自分らが犠牲になったお陰で活路を見出し、九死に一生をえた。家来が諫言し、その意を冷静にうけとめた家康の器量が足軽の行動を呼び起した。講談は映像や効果音のない世界で語り手の迫力が訴える。そこに命掛けの覚悟をも感じさせる桃川鶴女の講談でした。

2008年6月25日水曜日

歯科の現実




<ニュースの背景>
同じ事柄でも、患者、歯科医、技工士のそれぞれの立ち場で主張がことなる。
技工士は入れ歯、カブセを制作する人ですが、歯科医が海外にこの加工を委託することが行われていることが問題になっている。
●厚労省は患者の同意を得ること、患者が自費治療の場合なら海外委託でもよい。しかし現実にはこの同意の前の説明、もない。
●歯科医は10年前に比べると、20%の所得ダウンだそうです。そういう背景にあるので違法治療が横行しているそうです。こういう治療は材料に鉛が入っているなどの問題がある場合もあるのに、厚労省はこの点をあえても見逃しているような傾向がうかがえる。
歯科医も所得ダウンがあるから技工士への加工委託料の大幅ダウンを要求している。技工士も受けた仕事を海外に委託しているケースも増えているし、廃業する人も増えているそうです。技工士の学校に入学する人も減っている。
海外からの入れ歯の輸入は雑品扱いで安全衛生面でのチェックが」ないので相当な問題である。外国に委託するなどは餃子問題で承知のごとくである。
技工士は日本では資格試験の合格した者を要求しておきながら、海外委託をたとえ患者の同意を得ることを条件に見逃している点はどう理解したものかと考えざるを得ないという(まず医療費削減が第一義なのでしょうか。歯科に限らずですが)
高額なインプラント(上顎の歯は取り付け時に脳にも影響あり、受講者から西欧や米国で安くない場合はキチンと良心的に治療しているのではないかという疑問が投げかけられたが、米国でもこの治療が報道されていないが問題になっている由)やホワイトニングにしても歯を削るので相当にいためている。このように患者の苦情が増えているのは歯科医への治療費締め付けが原因のようである。






東京経済大のマスコミ講座:専門紙の場合より:見事な講義でした。

2008年6月24日火曜日

米国の深慮遠謀



1898年の米西戦争の結果、アメリカはスペインかに2千万ドル支払、フィリピンの支配権を獲得する。そして20世紀初頭、日本が対ロシアとの戦争に勝利するや、対日恐怖症が米国をうごかし、密かにオレンジ作戦と呼ばれる、来るべき対日戦争のシナリオ書きが始まる。そのシナリオにおいて、日本と戦争する上で、フィリピンが太平洋にあって、いかに軍事的に重要な拠点であるかが早くも認識されている。余談だが、この作戦以前から海軍の戦略家アルフレッド・マハンの著作に「日本は必ずフィリピンに侵攻するであろう」という予言がしばしば現われている。これは地政学上から見たフィリピンの重要性から導き出されたものであった。マハンの考え方は20世紀アメリカの戦略家の常識となっていた。アーサー・マッカーサーらが20世紀初頭、フィリピンに軍事顧問として赴任するのはそうしたアメリカの考え方からであった。その予言が的中するのは、それから40年近い歳月を必要としたが、マハンの予言が正しかったことは1941年12月7日パールハーバーと同じ時期に日本はフィリピンに侵攻した。フィリピンは海を間にした日本とアメリカが勝手にフィリピンを主戦場にイメージしていた。帝国主義とは誠におかしな時代だった。
フィリピン、ラテンアジア感情旅行(世界・わが心の旅:石川好)

2008年6月23日月曜日

新生フィリピンの意地


おはようございます。フィリピンが世界を動かしていたという事実をちっともわかっていませんでした。日本もアジアであるのに、いつも米国ヨーロッパの視点で
ニュースが流れているからでしょうか。人ごとのようですが・・・目からウロでした。

フィリピン・ラテンアジア感情旅行:石川好(NHK世界・わが心の旅)から

アジアで最も親米的な国であると自他ともに認めていたフィリピンに、まさかと思われる反アメリカ基地運動が持ち上がり、フィリピンの上院がそれを承認してしまったからである。
1986年2月の独裁者マルコスから選挙を経てのアキノ大統領に政権が移行したいわゆる「フィリピン2月革命」とその余波によるものだった。フィリピンの星といわれたマルコス大統領であったが、期待とは裏腹にスペイン植民地支配以来続いている支配権力層は逆に彼と結託し一層強化されていた。こうしたかつての植民地主義にも似た圧政に1972年戒厳令がひかれるくらいまでになっていたし、米国も裏ではマルコスに協力していたことへの米国への不信感が背景にあった。


この「『2月革命』の平和的達成は、世界中に鮮烈な印象を与え、その後の韓国(1987)、ビルマ(今のサイクロンのあったミャンマー1988)、中国(1989)さらには東欧諸国やソビエトにおける民主化要求運動の刺激やモデルになった。運動の連鎖が、最終的には東欧の社会主義体制を崩壊させ、東西冷戦の終結を導いたという意味では世界史の画期的となる出来事だった。そして『二月革命』の波紋が世界中をめぐって冷戦構造を瓦解させたことが、
再びフィリピンへと跳ね返って、在比米軍基地の戦略的重要性を決定的に低減させ、基地の撤収を可能にする環境をうみだした。直接には91年の基地協定の失効に伴う改定交渉のさなか6月におきたピナトゥボ火山の大噴火がその東麓に位置するクラーク基地を放棄させ、スービック海軍基地のみ修復することに合意した。この交渉においてクラーク基地分への援助がなく、大幅なカットになったのはこの苦境に冷淡な対応であったとしてナショナリズムの感情を刺激されて比国上院は批准を否定した。それはアキノ政権の意図したことではなかったが、結果として米国の呪縛を脱しアジアの一員として生きざるを得なかったため、新生フィリピンの真の自立への模索が始まったのであると(『フィリピン』綾部恒雄)、弘文堂)を紹介している。