2007年10月31日水曜日

武士の倫理







武士の倫理 徳川の平和を支えたもう一つの柱は、社会の倫理原則に儒教が推奨されたことです。儒教の伝来は5世紀前半に百済の王仁博士が漢字(千文字)と論語十巻を持って渡来した時と言われますから、仏教伝来より約百年(?)早いものです。しかし個人救済の宗教ではありませんから、仏教のように広がることも無く、公家、僧などの中に伝わってきたものです。それが戦国時代となると、従来にない新しいリーダーである武将達は、競って孟子や大学・中庸などを読み学びました。
彼等、戦国の武将達は部下の侍達、また広く領民全体の強い信頼を得ることが何より必要であり、いわば全人格的リーダーであることが必要でしたから、儒教の学問、儒学は必須の教科書となって来たものです。 家康公も深く儒学を学んでいます。彼は今川家の人質として駿府(静岡)で育ちますが、同地の名刹「臨済寺」の雪斉師より教育をうけ、終生旗印として「厭離穢土欣求浄土」を掲げて戦ったことでも解かるように、深く仏教に帰依していたと思われます。晩年の手紙には「平和になって自分は暇になってしまったから、1日六万回念仏を唱えている」と書いています。
しかし幕府設立時に藤原惺窩を呼んで儒教の進講を受け、国家を運営する倫理としての儒学の大切さを認識して、惺窩の弟子である俊英、林羅山を顧問として起用したところから幕府と儒学の深い関係が始まります。四代家綱の後見人であった保科正之、五代の綱吉、と儒学に深く傾倒した人物が登場したことにより、儒学は幕府の公式な学問になりました。
日本中の大名もこれに倣いましたから、江戸期を通じ武士の学問は儒学となりました。儒学の教育は知識の教育であるよりも、社会の指導者である武士階級の人格と品性の教育でした。 
江戸初期の軍学者で儒者である山鹿素行は、「農は耕し、工は造り、商は交易に従事して夫々額に汗して働く」のに対し、武士は「不耕、不造、不沽の士」であるから、その職分に自覚が無ければ「遊民、賊民」であるとして、武士の職分は、「主人を得て奉公の忠を尽くし、朋友と交わりて信を厚く、身を慎んで義を専らにするに有り。農工商はその職業に暇あらざるを以って、常住相従って其の道を尽くし得ず。士は農工商の業を差し置いてこの道を専ら勤め、三民の間苟も人倫をみだらん輩を速やかに罰して天下に天倫の正しきを待つ。これ士に文武の徳知、備わらずばあるべからず」と書き、この士道論は広く武士に影響を与えました。
こう言うものを読みますと、青木英夫氏の「西洋くらしの文化史」にあった17世紀フランス貴族の日記の一節と比較したくなります。そのラ・ブリュイエールと言う貴族は「これらの動物は、牡も牝も田畑に散らばり、青黒く日に焼けている。夜になると彼等は巣に帰る。そこで彼等は黒パンと水と草木の根とで生きている。」と書いています。これらの動物というのは無論農民達のことです。フランス革命が起こるわけです。 江戸時代は265年にわたる長い時代ですから、一口に「江戸時代とは」と定義付けるのは難しいことです。戦国の余韻が残る江戸初期と、江戸文明爛熟の文化・文政期とはまるで別の世界のようです。この長い時のなか、武家階級は貧困化し、農工商の経済力は飛躍的に増加しました。しかし武士の倫理は基本的に最後まで変わらぬものが有りましたから、社会としては大変に洗練された経済社会の上に、この武士の倫理が上級規範としてあった訳で、江戸時代を考えるときには、この絶妙な「経済と倫理のバランス」を理解する必要があると思っています。
ブログ「学際」から(このブログも中断しているようですが、記録は残っているようですが・・・

2007年10月29日月曜日

トルコ航空の救援機


左写真は「ゆんフリー」を利用しています。
チューリップとサクランボの発祥地トルコの国と日本のおつきあいについてのお話です。
三笠宮殿下とトルコ駐日大使の列席があった10月28日のイベントでした。
以前NHKのプロジェクトXでも報道されたことで、ご記憶に新しいことだと思います。

1985年3月、イラン在留邦人達がイラクのフセインによる空軍機の空襲によって2軒先に爆弾が落ち現地の人に死者が出て、日本人家族は宿舎の地下で過ごす人も現われる事態に追い込まれていた。イランから脱出しようにも、各国の航空会社は、いずれも「自国民優先搭乗」方針を掲げ、しかも自国民の乗客で満席である」であるとの理由で、日本人の搭乗を拒否したのであった。日本の航空機はテヘランに乗り入れていなかったし、野村大使も外務省を通じて自衛隊は海外へは無理であったし、日本の航空各社へ交渉した。しかしイランの安全保障と攻めてきているイラクからの安全保障を得られるのならという、事実上の拒否であった。

野村イラン大使はイランでトルコ大使とは腹を割って何事も相談できる、同期に赴任したもの同士の昵懇の間柄であった。隣国トルコでは★伊藤忠の森永尭支店長はトルコの大統領から委託をうけているオサ―゛ル首相と「パジャマの友」というほど早朝や遅い晩に首相の私邸赴いて付き合う昵懇の相談相手だった(トルコはそのころ経済的に行き詰まっていた。これに手助けしてトラクターの自国生産ができるような道をひく協力など惜しまなかった)。

こういう下地があって★野村大使は先のトルコ大使にも話していたし、森永氏は本社から要請があり、首相へトルコ航空に特別機をだしていただくように懇願した(森永氏も他国同様に首相としても、自国民もまだ全員収容する処置が終っているわけでもなく、無理な要請であることは重々分かっていながらのことであった)。
オザール首相は日本人を優先救援したというトルコ国民からの批判が巻き起こらないか、イランへ救援機を派遣するにしても安全を確保出来るのか?問題点が種々指摘される中で敢えて派遣するのだから、将来政治問題化した場合の対応策は?しかし日本の親友が懇願するように、脱出を図る日本人に危機が迫っており一刻も猶予ができない。さまざまな思いをめぐらせながら、遂に派遣を決断した。

今日のシンポジュウム・パネリストは★の方々:
★エミネ・キョプルル(当時のトルコ航空客室女性乗務員:日本人は駆け足で・真剣な顔で座席についた。
 日本に来るのは嬉しい。道を聞いても丁寧に教えてくれる。長時間の日本乗客にゴミがない、トラブルもない。日本で忘れ物してもチャント残っている。

この救援機がトルコに着陸したときは食事やお酒はとくにお酒は残っていませんでしたという発言がこの女性乗務員からあって、感謝の念のこもった聴衆から暖かい拍手が沸きあがった。
★オルハン・スヨルジュ(当時の機長):イラン上空を通過して、「ヨウコソ トルコヘ」といわれた215人は頭から足の芯まで安堵感が染みとおった。救援機なのに、女性客室乗務員だけであった、ここで★毛利東京銀行員の奥さんがお礼を言うと、その乗務員の目に涙がうかんでいたという。緊張した任務から解放された気持ちが目元にあらわれた(結婚もしていて、夫には救援の仕事はつげ、父母には心配をかけるということで内緒にしていた)。

司会者がどうしてこんなに日本に好意的な理由が知りたいという質問があった。機長の発言も友達というのは困ったときに助けるものだ。

オザール首相に森永氏があとで尋ねると、誰も、どの国も、(貴方の国さえも)助けがどうしても得られない事情がよく分かるから助けたのだと。

トルコ地震に見舞われた時、1万人以上の死傷者もでて、これに215人の各人は会社内にしらせ、毛利さんは500万円もの義捐金があつまり、これをトルコに届けた。これを随分後で聞いた機長らは、こういうふうに気持ちが通じ合えるので又要請があればまたフライトしますといっていました。
野村大使:日本人を帰国させたが、自分は残り、大使館員にも帰国を勧めたが誰一人帰国するものはなかった。大使の子供も同様だった。
日本人学校の県先生はこの事実をしり、のち単身赴任で残った子供へ教育にもどったという。

トルコが日本に超好意的なのは

①ロシアのピョートル大帝との戦争でトルコは連戦連敗であるがアジアの小国日本の海戦の勝利にトルコ人が驚嘆した。
②明治時代にも交流があったので、トルコの軍艦・エルトウール号が来日したものの、紀伊半島の串本で遭難し、犠牲者がでてそれをねんごろに慰霊碑もつくったこと等厚かった友情に多とした。
③朝鮮戦争はトルコは4.5万人を派遣し、米国兵を驚かせ、帰国時に日本経由したときは復興の有様がすごいので、祖父がいっていたのは本当だったと。これらの4万5千のトルコ兵が故郷に帰り、日本の状況をはなしている。
④発言をもとめられた人がいうには、トルコにいって外国人として、嫌な目にあったことはない。又同じ血筋や気質ではないかと思われるところがある。西にいったのがトルコ人、東にいったのが日本人だと思いたいという。
⑤司会者は許可をとらないでトルコで発掘調査していたところ、地元警察につかまったが、そこの上司が日本人と分かっただけで一月朝・昼・晩食事にこの庁舎に来てくださいとの厚遇を、ただ日本人であるというだけでしてくれるのだった。まるで地獄に仏とはこういうことだと理解したという。

以上の話を聞いて、一度はトルコを是非訪れてみたいという気持ちになった。
気持ちのよい実話が聞けた同時通訳のある中近東文化センターでの行事であった。

2007年10月28日日曜日

風のような物語(写真家・星野道夫)

フリー写真はゆんふりー提供
アラスカに米兵として駐留していたが1948年兵役から解除される。そのときボブはエスキモーのキャリーと結婚していた。21歳のボブはある決断をしようとしていた。
軍隊の生活に疲れたが、アラスカにとどまることで燃えるような生活が満たされるのではないかと考えていたのだった。そしてキャリーとの狩猟による自給自足の生活が始まった。


ボブの話し方は自然だった。今の時代に投げかける疑問も素朴で、かえってそれが説得力を持っていた。
「昔、エスキモーの生活の中心はカリブー(北米ではトナカイをこう呼ぶ)であり、カリブーがすべてだった。エスキモーは季節とともに、カリブーを追った。
人はカリブーとの関係で精神的な充足を得、そこには完成された生活があったんだ。しかし、いつしかそこに西洋文明とともに貨幣化経済が入り、人とカリブーの関係が弱まる中で、人々は精神的な充足を新しい価値観に求めるようになっていった。けれどもその新しい価値観はカリブーと違い、求めてもつかまえることができず、完成された生活からはどんどん遠去かっていってしまった」いつしかボブは、彼の生活観を話し出していた。

「何もなかった時代は自分の生活圏以外のどこにも刺激を求める必要はなかったんじゃないかな。それは日々の暮らしの中で向こうから飛び込んできた。日常生活で求めたいたのは、刺激より休息だったんだ。けれども、今の時代、すべてこのことが決まりきっている。明日のことも、その先のことも・・・・・。それでも生きていくことができるというのは、自分にとって大切なことだった。
カルフォルニアにいた頃、生活はすべて他人から与えられていた。食べるもの,着るもの・・・。そんな生活はおかしいと思っていた。人生にはもっと意味があるはずだと思っていたんだ。」

アラスカ「風のような物語」写真家星野道夫著より
素晴らしい写真集です。生命の愛おしさが伝わってきます。
http://www.michio-hoshino.com/

2007年10月27日土曜日

ブログの継続



㈱エフ・ピーアイという新潟にある会社(消防器具の販売会社)のコラムでした。というのは


面白いものや楽しいブログを「お気に入り」として登録しているのですが、昨年の5月に登録していたのにもう継続されていません。残念なことです。継続は力なりということですが、小生も何とか面白い・楽しいブログを見つけてご紹介したいとおもいます。
これはあくまでも個人の好みでえらんでいますので、皆さんにも気にいっていただけると嬉しいわけですが・・・



旅行先で特急に乗ったYさんが本を読んでいると、ワゴンサービスの女性が「お勉強ですか」と気さくに声をかけてきました。 一言二言会話を交わした後、Yさんは「○○に行くには、○○先の停車駅から戻ったほうが早いですか?それとも手前で降りたほうがいいですか?」と問いかけました。この特急は、目的地の○○には止まらないのです。 女性は調べに行ってくれましたが、比較的込んでいたためか、すぐには戻ってきません。いつしかYさんは眠ってしまったのです。目覚めたとき、かばんの上に手書の「お乗換えカード」が置かれているのに気づきました。 その女性に会えないまま列車を降りたYさんでしたが、彼女のくれたカードのお陰で安心して目的地に向かえただけでなく、その後の一日がとても軽快な気持ちで過ごせたといいます。そして、誰かに親切のお返しをしたくなったのでした。 ちょっとした親切が、お客様や同僚など、相手の心を明るく朗らかなほうへ導き、伝播して、やがて自分に返ってきます。まずは自分から発してみましょう。

2007年10月26日金曜日

日本の国は破綻するか





みんなの仕事塾から:


まだ多少皆さんの心の奥に何年前かの心配が残っているかもしれませんが、国会でも議論されていたとは露しりませんでした。韓国はIMFの過酷な勧告に応えて見事に立ち直りました。その勇気は素晴らしいと思います。


●質問 こんにちわ。アメリカのIMFに近い筋の専門家がまとめたネバダレポートなるものがあります。国会において、これを取り上げながら、「日本が破綻した場合にどうなるのか?」ということを論議しています。


以下、「衆議院議事録第10号平成14年2月14日」の論議の内容の一部です。 このレポートは、「もしIMF管理下に日本が入ったとすれば、八項目のプログラムが実行されるだろう」ということを述べているのであります。 


手元にありますが、その八項目というのは大変ショッキングであります。公務員の総数、給料は三〇%以上カット、及びボーナスは例外なくすべてカット。二、公務員の退職金は一切認めない、一〇〇%カット。年金は一律三〇%カット。国債の利払いは五年から十年間停止。消費税を二〇%に引き上げる。課税最低限を引き下げ、年収百万円以上から徴税を行う。資産税を導入し、不動産に対しては公示価格の五%を課税。債券、社債については五から一五%の課税。それから、預金については一律ペイオフを実施し、第二段階として、預金を三〇%から四〇%カットする。大変厳しい見方がなされている。」 ということで、ここから質問です。日本国家は破たんするのでしょうか? 日本を脱出したほうがいいでしょうか? 外国籍をとるのは難しいのでしょうか? 東南アジアは比較的取りやすいと聞いたことがあります。でも、日本の家には思い出が詰まっていて処分する気にはなれません。どうしたらいいでしょうか。具体的にどういう対策をたてていますか。


 ●答 日本経済は破たんする。よって、早めに手を打たないと大変だぞーー。というような趣旨で書かれた本に、たとえば、『2003年、日本国破産 対策編―YEN(円)と国債が紙クズとなる日が近づいている!?』(ISBN:4925041606、217p 19cm(B6)第二海援隊 (2001-05-07出版)・浅井 隆【著】)があります。これは小松左京の『日本沈没』みたいな本で、最悪の最悪の最悪の事態を書いた本です。 


こういう最悪の最悪の最悪のことを、いわゆる普通の人が考えても仕方ありません。日本人は馬鹿ではありませんから、最悪の事態へ行く前になんとかするでしょう。心配されている年金については、一円も年金が貰えなくなるというような極端なことは起こりえず、年金の支給が遅らされたり、支給額が減ったりという程度に落ち着くでしょう。国家財政の悪化という事態は、円安そしてインフレという事態を招くでしょうが国はつぶれません。将来の増税は必至ですが国は存続します。 こういう本に書いてあるような最悪の事態に陥るよりも、関東・東海大地震や北朝鮮からのミサイル攻撃、イスラム原理主義によるテロで命を落とす確率の方が高いのではないでしょうか。


後者の方は防ぎようがないですから。 国家破産はあり得ない。国としての信用が低下するだけ。しかし、大型増税とインフレは避けがたい。全体のことはどうでもいい。自分の事を考えろ。海外で資金を運用するのは誰にでも出来ることではない。それなら国内株式で運用する。インフレや増税以上に運用で稼げばいい。 さて、脱出した方が良いかどうかについてです。これはあなたの状況にもよります。あなたがもし、資産がウン十億あって、英語が日本語と同じぐらい出来て、国際的に通用するスキルがあれば、状況を見ながら逃げることはできるでしょう。でもこういう人生が幸せだとは思えません。思い出や友達は海外へは持っていけませんからね。 


この答えを書いた人は投資を勧める人でしたのでその部分は割愛してあります。

2007年10月24日水曜日

本当の贅沢





金がかかればかかるほど、たちまちにエスカレートし分に過ぎたおごりになって限度を越えて行く。欲望は限りがない。




私はこれが本当の贅沢と教えられた体験があった。




私はかつて砂漠の絵を描きたくて、アフリカの砂漠を遊牧民と車で何日も動き回った。




あるとき突然遊牧民が車を止めた。ボロボロの絨毯を広げ、紅茶をいれてもてなしてくれた。茶碗は所々かけていた。下手をすると、唇を切ってしまいそうになる。




仰ぎ見れば、無限の空と何処までも広がる月世界のような砂漠で振舞われた一服の茶は例えようもない美味なものだった。星の上にポツンと一人置かれたような壮絶な世界、この時得た経験は「時間」「空間」に対する尊敬だった。




千住明という画家の話しです。

2007年10月23日火曜日

言葉と心で見る美術館









平成一六年一二月四日富山県立近代美術館で、視覚障害者と健常者(晴眼者)がおしゃべりしながら絵を見る「言葉による鑑賞会」が開催された。
講師役を務めたのはNPO「エイブル・アート・ジャパン」(東京)である。 従来、視覚障害者の美術鑑賞といえば「触って鑑賞する」という方式しかなかった。しかし、立体彫刻ならば触って感じ取ることも出来ようが平面絵画ではそうもいかない。
そこで考えられたのが、視覚障害者と晴眼者が「一緒にことばで鑑賞する」という方式だ。通常は視覚障害者一人に対して三、四人の晴眼者がついて美術館の中をまわる。 絵の前に立った晴眼者はまず第一印象を話す。
「何か暗い感じの絵・・・」「人がたくさんにいて賑やかな感じ・・」「きれいな女性が座っている」など何でもいい。
視覚障害者はその言葉によって全体のイメージを頭の中に描く。次に絵の大きさ、色づかい、構図、遠近感などについて話す。
そして間を取って障害者の言葉を待つ。障害者はいろんな視点から質問をしてくる。
晴眼者はその質問に答える。そして再び間を取って言葉を待つ。「やっているうちに分かったのは、間をとる余裕を忘れないことです。自分の解釈をそつなく伝えるよりも言葉のやりとりを楽しもうとする態度が重要だということです」 当日、ボランティアとして参加したM・Aさんはこう話す。 一
一般的に他人の解釈を引用したり、あらかじめ勉強してきたことを話すと視覚障害者は違和感を持つ。それよりも視覚障害者は晴眼者自身の中から湧きでてきた言葉を好む。晴眼者によって解釈の違いがあっても構わない。むしろ障害者はその違いを楽しむのだという。「言葉による鑑賞会」は何ともNPO的な活動である。企業ならば絵を解説するテープが自動的に流れるようなシステムを考えるだろう。企業は機械に頼り、NPOは人(ボランティア)を頼りにする。こんな違いが見えてくる。
 
Mさんだけでなく、当日ボランティアとして参加した健常者はプログラム終了後に何とも言えない満足感を覚える。その満足感は視覚障害者に喜んでもらえて自分の存在感を確認できたこと以上に、絵をしっかりと見るきっかけを与えてくれたということだ。目を開けていることと、見ていることは実は同じではない。健常者は、視覚障害者の質問に答えるために真剣なまなざしで絵を見つめる。そして自分の言語能力を駆使して絵の説明を試みる。このプログラムの凄いところは、視覚障害者が健常者の潜在能力を引き出している点がはっきり分かること、「助けるー助けられる」という関係が一方的でなくて相互的であることだ。

ブログ「みんなの仕事塾」より