2010年3月26日金曜日
ふまじめ介護①
おはようございます。3日間も雨、昨日は氷雨でもなく、凍雨もありうる寒さでした。
「ほとけ心のアッパレ介護」田辺鶴瑛(講釈師)→ 本は「ふまじめ介護」でした。介護は講談ネタとはほど遠いということだそうですが。
体験した介護を講談で聞けるとは思わなかった。実感がこもっていて、嘘がない話だった。
この方は3人の介護を経験しました。18歳のときに実母の介護を4年間、31歳のときに義母の介護を3年間、そして現在は夫と一人娘と3人で義父の介護に奮闘。
この人は予備高校に入るために上京し、勉強している最中に突然北海道の実家から電話が入った。母が脳腫瘍だということで、手術することになった。しかし脳動脈瘤で誤診によるもので手術も失敗し、母
は植物人間になってしまい、西洋医学に不信をいだくことになった。この母の介護に4年の間私を失っていた。介護より解放され、生命保険60万円で、インドに旅行に出かけた。路上のストリートチルドレ
ンは憎たらしいほどの元気さで暮らしている。この劣悪な環境に生きる彼らに比べれば、自分の4年の介護の苦労などはいかほどでもないと思えてきた。彼らの中には首に縄をつけてまるで犬のような芸の
見世物まであった。通りすがりでちょっと立ち止まった位で立ち去ろうとして、「だだ見はいけない、お金を置いていけ」みじめな格好よりも、どれだけ人を立ち止まらせか、なりふりはかまっていられない
生き方の厳しさが良く分かってきた。
帰国後に出会いは、その時の結婚条件は倒れても、面倒みてくれる男性ということだった。結婚後、義母が介護状態になった。親戚からは、ああやれ、こうやれと文句ばかりであった。介護のルールは、
手もお金も出さない人は、沈黙だけということにしないと、とてもやってはいられないことが体験で分かった。
いい嫁になるために、玄米や、昼食べる麺類は種類を変え、これは本人の意思を無視していたのです。気持ちの余裕がない状態では車イスを走るように押たり、答えない義母に「何とか言って」といっても
答えず。とうとうはけ口のなくなった時、帰宅した主人に頭からソースをかけてしまった。その日は一晩中夫が介護していてくれた。いい嫁になろうとしてもとても無理だった。義母は義父にはいい思い出
がなかったようで、「おじいちゃんとは同じお墓はどうしても嫌だ」というありさまだったが、「ワシは病院の付き添いでボロボロ」といいながらも面倒をみた。介護のよいところは、家族一丸となって対処
する作用をもっているので、決して悪いことだらけではない。子どもに苦労させるから、何とか別に住むという状態にしたいのが親心であるが、こういう介護の苦労を実際に体験させることは避けていけな
いと思うようになった。
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