2010年3月10日水曜日

田沼意次の実力


おはようございます。夕方5時に都の中央に位置づる市ヶ谷を出たころに雨が降り出した。それが新宿についたころは霙にかわり、都下の西東京につくともう地面は雪に覆われ、足元を注意しながら家につき、車のワイパーをウインドウから離して我が家に入った。

田沼様にはおよびもないが、せめてなりたや将軍様にといわれた落首があった。地位が倒錯しているが、世間でいわれる実力者だった。世を寸評する落首も時とともに

田や沼や 汚れた御世を改めて、清く澄ませ白河の水(松平定信のクリーンな政治)
しかし幕府財政は一向に好転しなかった。
しかしクリーン政治を期待したが、一般庶民も今度は

白河の清き流れに魚すまず 濁る田沼の水ぞ恋しき

「あの人に頼めば、必ず出世させてもらえる」とか「あの人にお願いすれば必要な予算は全部とってくれる」ということになれば門前には市をなすほど人が訪れる。田沼意次は江戸の下屋敷(別邸)に池が掘られた。登城前に脇にいた武士に「この池に鯉や鮒をいれたらさぞおもしろかろうな」とつぶやいた。当時の江戸城の役人の勤務時間は午前10時から午後2時までで、間で昼飯をたべるのでいったい何時仕事しているのかわからないが、田沼の屋敷はそれほど遠くない。下屋敷に戻ってきた。朝脇にいた武士が「殿、池をごらんください」というので立ち上がると池の中に高価な鯉がたくさん群れをなしていた。
10代将軍家治は絵が好きだった。あるとき田沼に「みるべき絵師がおるか」ときいた。即座に「狩野典信(かのうみちのぶ)、惟信(これのぶ)父子がめざましゅうございます」と答えた。これが口コミで伝わりこの父子の絵は高値を呼んだ。「田沼様がこうおっしゃった」という形で流れておくからこれが真実二なり、たちまち応ずる人間がでてくるのだ。日本人の社会は「なに(内容)をいったか」ではなく「誰がいったか」という社会だ。
松浦静山・夜話ものがたり:童門冬二著(甲子夜話をかいた外様であるが殿さま人の見聞録)

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