2010年3月22日月曜日
人は誰でも大人になれるか
おはようございます。この3連休は人の出が多く、3倍位で、通常30分のところ1.5時間もかかる有様でした。
お彼岸でした。18日に新座市市民会館で無着成恭先生(現在83歳、大分のお寺の住職)の講話;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E7%9D%80%E6%88%90%E6%81%AD
舞台の後ろは一面黒い暗幕が張ってあった。最近演壇に進みでる前に、、演台とは反対になり、聴衆に背を向けるように、静かに礼をされた。これを説明されていわく、どこにでも、神や仏がいるかわからないものの、どこにでもいる。しかしここにいるのですよということを設定しなければならない。仏様はここにいますの宣言をするのだそうです。次には字の話となった。篇の「示」は人間の精神活動を表す、この「示」は羊を生贄として血を流して捧げ、設定場所の周囲を3周する。「示」は宗教活動なのだそうです。宗家はお茶やお花でいう家元である。オオモトの教え=人間根本の生き方。家庭でこの生き方を教えるべきことがなくなるし、宗教がないと国のオオモトもなくなるので、国が成り立たなくなる。「示」篇の字は350から400はあるそうです。
インド航空にのると、「ナマステ」、タイにいくと「サワディー」貴方を礼拝します。という言葉だそうです。
演題は「人は誰でも大人になれるか」という題でした。
算数の話から始められた。
1+1=2、リンゴに例えると、どの1も同じ種類のリンゴ
1×1=1の掛け算を考えるにあたってどの1も同じものではないということで、掛け算の場合同じ種類は掛けられないということを知っておく必要がある。
リンゴ2宛てを2人に分け与える:2コ×2人=4コになる:このように「コ」と「人」
リンゴ2+リンゴ2=同じリンゴを2つずつ足すとリンゴは4コになります。
2m×2m=は4㎡でまったく別の2次元になってしまう。これが分かるのが「大人」なのです。
俺はコウダ、コウダと己の主張をするのだというのが子ども、これは有難いというのが大人。相手の気持ちや立場に立てるのが大人。初潮があり子どもが生める身体になっているのは生物学的大人。相手から自分がどう思われているのか
分かるのが大人。というお話だった。
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