2009年8月17日月曜日

大井川の川越




おはようございます。
東海道の川越は大井川に限らず、6つの川で行われていたそうです。
<大井川川越遺跡周辺>
島田駅から西へ約2Km行くと、大井川の東側、旧東海道沿いに国指定の史跡「島田宿大井川川越遺跡」があります。 旅人が川札を買った「川会所」をはじめ川越し人足が集合していた「番宿」や「札場」など当事の町並みが復元されています。また人形浄瑠璃「生写朝顔日記」にちなんだ「朝顔の松公園」などが隣接し、江戸時代のノスタルジーを感じながら博物館から分館へ通じるルートは欠かせないスポットになっています。

<大井川の川越し>
慶長6年(1601)徳川家康は、東海道に宿駅伝馬制度を設け街道の整備をしましたが、大井川、安倍川など6つの川には橋を架けず徒歩での通行と定めました。
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われたように、大井川は東海道最大の難所で、増水のため川留めになると旅人は水の引くのを最大で28日も待つ記録ことがあるそうです。
待つ気持ちとしては降雨量によってもあるでしょうが、懐さえ豊かなら、島田宿の遊女との逢瀬には苦痛もなかったという場合もあったかもしれませんし、逆に路銀を使い果たしたというような場合もあったかもしれませんね。

川越しの管理・統制は、はじめ島田代官・宿場役人の役目でしたが、元禄9年(1696)になると新たに川庄屋が任命されました。やがて、川会所が置かれ川越し制度は確立されていきました。
大井川を渡るには、川札を川会所で買い、川越し人足に渡して人足の肩や蓮台に乗り川を越しました。川越し人足の数は、初め、島田、金谷でそれぞれ350人と決められていましたが、幕末には650人を超えていました。 これらの人もその後失業して、牧の原台地で茶業に励んだようです。

<料金>
川札の値段は、毎日川幅と深さを測って定められました。→渡す人足が何人かかるか。肩車越、台越(乗客が1人と、2人とがある)、4本棒(大名籠などを人足24人から.36人)
水の深さ、は人足の体の「帯下」、「帯上げ」、「乳通(乳房も埋まる)」、「脇通(乳房の上、脇の下も埋まる)」等16段階にも分類されていたそうです。
「膝下」もあった位ですから水嵩が浅い場合で歩いて渡れる場合はどうしたかは説明されていませんでした。又川幅によっても変わるとありましたが、これも分かりませんでした。
その時疑問がわいてこず、後からでした。
別添の絵の説明を拡大してご覧ください。



昭和41年8月に国指定史跡に指定されました。

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