2009年10月15日木曜日

舞台美術をやることに


おはようございます。風邪で寝ていたことが多かったので、カーテンは閉めたままだったので、ハット思いながらも、出窓に置いてあった折鶴ランに水を1週間位忘れていたが、思いだしてカーテンを開けてみて健在だったので、タップリと水をやりました。

妹尾河童さんが、テノール藤原義江で、日本にオペラを根付かせた先駆者の大スターのところに居候したキッカケは、公演のポスターやパンフレットをデザインしていた縁でした。藤原歌劇団が大阪にやってきて、オペラ『オーボエ』の河童さんがデザインしたポスターをみての評価だった。それで東京に来ないかと誘われ、すでに知り合いになっていた子息の義昭氏もいたので自宅にお世話になることになった。
婦人の藤原あきさんも懐が深い人だった。そこで藤原家や歌劇団の手伝いはなにもせずに、グラフィックの仕事だけしていた。

3年目のある日、珍しく真剣な顔で「きみー、こんどの『トスカ』の舞台装置をデザインしてみないかね」と突然いった。この公演が2週間後に迫っている。舞台のデザインの経験は皆無で「藪から棒になにをいうんですか?」怒ったように答えた。ダンナは遮って「きみー、仕事が違うというけどオペラ好きなんだろう?そして絵が描けるじゃないか。チャンスは藪から棒に決まっているんだよ。列車が止まって”さあどうぞ”というものじゃない。人生なんて、ほんのちょっとしたキッカケで変わってしまうんだ。」
この若造にいきなり頼んできたその訳はいつも頼んでいる三林亮太郎さんという舞台美術家に何度も支払いしていなかったことからであった。やはりダンナのほうに非がある。公演中止かという瀬戸際であったのだ。そうと知っては描かざるを得なかった。自信が全くないが、居候の恩返しで承諾した。
3日3晩一睡もせずに舞台のデザインをした。そうして初日の舞台の幕をあげることができた。「やれば出来るじゃないか」とほめられても、もし失敗していたらということで冷や汗もので不機嫌だった。
ところが新聞やラジオでこの舞台装置が”人斬り銀二”と怖れられていた山根銀二にほめられた。「もう二度と舞台のデザインは描かないぞ」という決心していたのに、
貝谷バレエ団の「シンデレラ」の舞台美術も引き受けることになった。以後貧乏のどん底の日々は続く。


もうひとつのびっくりは藤原ダンナが、ポスターに”美術・妹尾河童”と印刷してしまったのだ。
(まだそのころは改名していないので、肇だった)「ヒドイじゃないですか。あだ名で呼ばれて
いるのを活字に印刷するなんて!」「君の名前が肇なんて誰もしらないよ。俺の名前は女の名前みたいな”ヨシエ”だぜ。カッパなら男とすぐにわかるだけでもいいよ”河童”が恥ずかしくない名前になるかどうかはこれからの君の生き方や仕事の仕方で決まるんだよ」といった。呆気にとられながらなるほどと思ったそうです。

河童の手の内幕の内;妹尾河童著より

0 件のコメント: