2009年10月12日月曜日
有馬という地理図師
おはようございます。知り合いの土浦市の家ではなんとか無事だったようです。土浦市というか茨城県で台風の被害は考えてみなかったことでした。
「全国地図測量史跡」紹介
山口県立山口博物館(防長土図所蔵)
河童さんの本で近代地図の先駆者で知られる伊能忠孝より100年もまえにいたことが分かった人の名前は有馬喜惣太、絵描きの才能だけでなく、測量技術も身につけていた。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kaempfer/mapsuv200/shiseki/tyugo/ty6.htm
http://web.pref.hyogo.jp/contents/000123140.pdf
山口県立山口博物館には、明和 4年(1767)に萩藩郡方地理図師有馬喜惣太によって作成された「防長土図」が所蔵されている。
現存する「防長土図」は、15の「切」と呼ばれる部分に分けられた本土と大島、豊前・筑前国の計17切及び周辺の島々の92個からなり、粘土で土形を作りその上に厚手の和紙を何枚も張り重ね、乾燥後に土型を抜き取る方法で作成され、杉材でできた「土図長持」に納められている。
地形表現は、地形の起伏を表すとともに、海・砂地・山地・平野部・耕地に色分けされ集落や神社などの目標物も図示されている。また、地図記号も使用されており、集落は黒丸、寺院は黒▲、神社は朱の■、その他の諸施設は朱の■■で、国境は、==村境は、--といった表現をしている。
地名も国・郡・支藩名から、村名、字名、神社名まで記入されている。それぞれの「切」は、その境と関係なく接合・組立がしやすい直線で切られていることから、国全体を鳥瞰するために作成されたと想像されるが、明らかな目的は分からない。
(有馬喜惣太)
土図を作成した有馬喜惣太(ありまきそうた 1708- 1769)は、長門国阿武郡生雲村に生まれ、御用絵師の雲谷等達の弟子として修行し、元文2 年(1737)に藩が進めていた村絵図作成の絵図方雇いとなった。
宝暦 4年(1754)村絵図の完成を見たが、有馬はそれまでに絵図師としての技量を高め、引き続き絵図方として藩に勤め、宝暦12年には藩士(郡方地理図師)に登用された。
有馬は、この村絵図「一村限明細絵図」のほか、道中絵図の「御国廻御行程記」や「萩大絵図」などを作成した。
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