2007年9月13日木曜日

芭蕉の句


芭蕉は奥乃の細道の途中で方向転換をした。ある人に言われ、立石寺(山形市)を参拝すべきということでここを訪れた。ここの開祖は慈覚大師[円仁]は入唐を念願していて、失敗を重ねていたが、45歳のとき3回目の成功した。芭蕉が奥の細道に出発した年齢と同じだった。
比叡山での修行ののち、当時の日本の代表的な優れた僧となった円仁は、42歳の時、遣唐使一行に短期留学の高僧として加えられました。43歳になった836年、円仁たちの遣唐使船は博多港を出発しますが、暴風に遭い大破し中止となります。円仁45歳の3度目の挑戦でようやく唐に着きますが、その時から、中国での9年半の苦難の旅が始まります。
円仁の入唐の目的は、天台宗の発祥の地である天台山へ行くことでしたが、旅行許可証が発行されず天台山へは行けませんでした。そこで、遣唐使船から降り、新羅人(朝鮮人)になりすまし、天台山を目指します。しかし、天台山より近いところに、五台山という仏教の聖地があり、天台宗で名高い和尚もいることから、五台山行きの意思を固めます。




この句は慈覚大師のなみなみならぬ渡航の覚悟と同じ気持ちで奥の細道に出発したという気持ちを思いながら読むともっと沁みてくるということでした。
慈覚大師があらわした『入唐求法巡礼行記』は中国や日本では、玄奘602年664年)の『大唐西域記』やマルコ・ポーロ1254年 - 1324年)の『東方見聞録』以上の価値があると評価する歴史学者もいる。(この3つを世界大旅行記とする意見もある。)
1955年には、駐日大使でもあったエドウィン・O・ライシャワーが英訳して紹介し、各国語に翻訳されて広く知られる所となる。

芭蕉の山寺行きについては中近東文化センターの池田裕常務理事の講演の話で

いろんな話、脇道のそれることの楽しさを教えてくれる方ですがそれをヒントに自分なりに調べてもみたものです。

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