武断政治から文治政治への移行期、秀忠、家光、家綱にわたる3代にわたる徳川将軍に仕え、<徳川の平和>の礎を作った男がいた。
離婚にまつわるもめごとを裁いた話:
離婚にまつわるもめごとを裁いた話:
ある長屋の店子として暮らしていた町人が、女房と別れた。ほどなくその女房は、通りの向かいの側に店を営んでいる扇屋の主人と再婚した。一人暮らしとなった店子の住まいの入口――おそらく腰高障子に、まもなく張り紙をした何者かがいた。そこには、「この者意趣(恨み)があれば、火をつけ申すべし」 と書かれており、この張り紙は二度、三度とつづいた。
長屋の親と5人組の者たちは、問題の店子に別に悪意を抱いていなかった。だが万一近所に迷惑をかける事態になることを恐れるあまり、店子に立ち退きを求めた。
しかし、店子の方としては、だれにも意趣をふくまれる覚えもないので立ち退かない、と主張する。これに困った大屋が評定所に訴え出たので、信綱は大家と店子の詮議にたることになった。
まず信綱が大家に店子の日頃の行状を尋ねたところ、大家は答えた。「店を貸して数年になりますが、悪事に及んだことはございません。ただし近頃夫婦別れをいたしました。別れた女房は向かいの扇屋の妻になっております。」信綱にはそれで分かった。
「その貼り紙は、その方が貼ったのであろう。さてさて、智謀の者よな。そうであろう。」
信綱が決めつけたのは、当の店子である。店子は驚いて白状におよんだが、それをうけて裁きは、「では所払いを申しつける」というものであった。所払いというのは,罰として居住地を立ちのかせることをいう。張り紙をした下手人は店子なのに、所払いを命じられたのは扇屋の方であった。
「事語継志録」に詳しい記述がかけているが、店子が女房を離縁した原因はその女房が予ねてから密通していたため、と考えればよい。店子としては、自分が張り紙をした本人と図星を指されるとまでは予想していなかったことだろう。似にもかかわらず、信綱が扇屋に非があると見抜いたため、結果としては溜飲をさげることができた。
智恵伊豆とよばれた男[老中松平信綱の生涯]中村彰彦 著
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