2010年4月19日月曜日

仏教ルネッサンス②



おはようございます。日曜日のボランティア祭後の打ち上げも楽しいものでした。運営していたのが、西東京市にある武蔵野大学(浄土真宗系)の学生さんたち16名でした。土曜日の準備に加え、ある学生さんは本番の日曜日は朝5:30横浜をでて、
8:00からの11:00までの準備もあり、終了後の6:00からの打ち上げで30分もすると、眠る一幕もありました。ボランティアなので、この会費も自前でした。本当のボランティアでした。
礼儀ただしく、来場者に楽しんでもらいたい配慮が行き届いていて、気持ちがよいものでした。4年生も何人もいるので、ここ2年は交流ができましたが、来年からこれない人もあり、名残おしいことです。
「仏教ルネッサンス」の続きになります、さらにこのような動きが活発になり、一般にも認知されるようになるのを期待したいですね。
葬式や法事といった儀式は執り行うが、仏教の教えと実践はわれわれが抱えている現代の問題には何の関係もない。そう考えている人が何と多いことか。しかし日本の仏教寺院は葬式の場だったのではなく、古来から多様な活動のセンターとして存在してきた。そこには「癒し」「学び」「楽しみ」といった機能があった。聖徳太子によって日本で初めて建立された四天王寺にして、四つの建物のうち、3つまでもが、病院、薬房、療養所ちいった癒しの場であった。また寺子屋といった学びの場、さまざまな歌舞演芸が勧請される楽しみの場でもあった。しかし明治以来それらの機能が、病院、学校、商業娯楽等に奪わてしまい、寺は「葬送」だけに特化させられてしまった。だから古来からの多様な寺の機能を取り戻すことで、地域の拠点となるという「ルネッサンス」が必要なのである。
仏教とはその時代その時代において、新たな苦に向かい合い、その構造を明らかにし、教えを改訂しながら進んでいくという実践なのだが、現実に起こっていることは、既に確立した「教義」における「苦」の定義から現実を見るという転倒した方法である。これでは最初からその過去の教義に見合ったものしか見えない。
時代がどのように進もうとも、教義は変更の必要もなく、「偉大なる真理は不滅であり、永遠である」といっていれさえすればよい。
日本の仏教は仏教全体が「教え」のほうを向いていて「慈悲は説くが、慈悲は実践しないといった状態に陥っている。」「教え」は深遠で高邁だが、実際の実践は「葬儀」であり、その葬儀もありがたくもなく、宗教的でもないといった不満をもつ人々は多い。真の仏教ルネッサンスをもたらすためには、教えと実践の一致、慈悲の実践こそが必要なのである。
今一度「日本仏教」の大きな流れに立ち返り、現代の問題に立ち向かうことが求められれている。それとともに、一般の在家者の側も仏教に期待感を持ちつつ、ある時は厳しく、意見し、あるときは励ますという、生産的なコミュニケーション作り必要だ。仏教は何より日本文化の大きな流れである。それを活かすか殺すかは私たちの未来に大きくかかわって来る重大事なのである。
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