2008年7月18日金曜日

多摩のシルクロード


おはようございます。槿が一番綺麗な時期です。我が家のは2つしか咲きません。どうしたのでしょう。近所のノウゼンカズラも花の色が薄い。
遠慮気味ですね。八王子は織物のまちでしたが、もうその面影はありません。電子関係の会社と大学と墓地の町です。
絹の道はペリー提督によって開港されてから西洋文化の流入の道であった。キリスト教の伝道もされ、自由民権運動も盛んでした。この絹は日本の資金源でしたし、群馬の富岡の製糸工場や鉄道網の建設を促した。

八王子市にある「絹の道資料館」は1990年(平成2年)に開館した施設で、道の右手(東側)、緑の丘を背負うように建っている。「絹の道資料館」のパンフレットによれば、資料館の建っている場所は鑓水の村名主で豪商としても知られる八木下要右衛門の屋敷跡であるという。1884年(明治17年)に母屋が永泉寺の本堂として移された後、この場所は水田として使われていたらしいが、発掘調査によって石積水路や母屋の礎石などが発見され、これらの一部が現在も野外展示されている。
かつて鎖国政策をとっていた日本も、1859年(安政5年)に開国すると欧米諸国との貿易が始まったわけだが、日本からの輸出品のうち、最も主要なものが生糸だった。八王子近郊はもちろん、埼玉、群馬、山梨、長野といった地域の養蚕農家から八王子宿に集められた生糸が、この鑓水を通って横浜へ向かった。この生糸の流通に於いて才覚を現し、生糸の共同出荷などの方式を取り入れて生糸の仲買で財を成したのが「鑓水商人」だ。当時の鑓水は武州多摩群鑓水村といい、17世紀中頃に村となったものという。江戸時代は幕府の直轄地で、農民の暮らしは厳しかった。そのために農民は現金収入を求めて副業に精を出すようになり、生糸仲買商人を生み出す素地になったのだという。生糸取引で財を成した豪商たちに支えられた鑓水は「江戸鑓水」とも呼ばれ、文化の点に於いても栄えたらしいが、やがて養蚕が機械化され、製糸工場へと移ってゆくと、家内制製糸業は衰退し、「鑓水商人」もその活躍の場を失っていったのだという。
「絹の道資料館」は、その「鑓水商人」に関する資料を中心に、幕末から明治初期にかけての生糸貿易や鑓水の歴史などに関する展示がなされている。展示室の中央には往時の鑓水の地形を再現したジオラマなども展示されており、興味は尽きない。

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