2008年1月31日木曜日

運動不得手?


現在の学校体育:脚の速い子、運動能力の優れた子はぐんぐん伸びるが、不器用な子、どこか身体図式に欠落があるように見受けられる子は自分はダメだというコンプレックスを助長する場にしかならぬ。実際、教師や母親にはなすと、私は運動が不得手人があまりに多いのに驚かされる。そう主張する人たちに私は次のような話をし、レッスンを試みてもらう。
---猫はからだがやわらかいと言われているが、「実は人間の方が猫より柔らかい」という言いだしたのいは野口三千三さんだ。「四足の動物は前に行くことはできても、うしろへ歩くことはできない。うしろへ歩くことができるのは人間だけ」自分の体が非常に堅いと思い込んでいる方は一度四つん這いになってネコをやってみるがいい。歩いたり、ごろりところがったり、あくびをしたり、どんなに楽か、そして自分のからだも案外やわらかいことがわかる。たいていの人はかけっこが遅かったとか、跳び箱が飛べないとかというに過ぎない。たいていの人はある運動はだめかもしれないが、ある動作は非常に能力がある。これが普通なのだ。「健全なる精神は健全なる肉体にやどる」はよく言われるが、「健全なる」の意味はそのもの本来の機能を十全に働かせているという意味のほかに、社会に害毒を及ぼさぬという意味をふくんでいる。これは一定の価値基準にあてはめて人を選別し、それに適わぬものを差別する、実際上この有名な譬えはそういう役割をはたしているのではないか。たとえばまっすぐに歩けない子供がいたとします。これは「不健全な」からだだ。
それを「健全」なからだに仕立て上げるということは、ちょうどシンデレラの靴を履こうとして、指や踵を切り落とそうとした継娘たちの愚をおかすことになるのではないか。本来はどのような能力を「育てる」ことによってそれを補うか、それに向かって努力してゆくことだ。そこには固定した価値基準はない。(出典を失念してしまいました)
写真は蒲郡市博物館絵手紙展より

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