高度成長のきっかけ
昭和25年に57歳で川崎製鉄の社長になった西山弥太郎は勇猛豪胆な男だった。
川崎重工から」製鉄部門を独立させた、この会社はまだ戦後であるからブリキ屋さんおおおきな構えにすぎなかった。西山の英文の卒業論文「神戸川崎造船所製鋼工場計画」を東大に提出し入社以来主として技術畑を歩んだ。鉄鋼一貫製造が夢だった。まだ虚脱状態にあった日本はさしあたり163億円もの投資には蔵相池田隼人は積極的な賛意をしめしたが、難物は日銀総裁の一万田はこの件とは直接関係ないが、「自動車工業など育成するのは無意味、必要ならば輸入すればよい」というよう発言があった。
しかし昭和36年には粗鋼六百万トンを生産するまでになった。「歴史を変えた決断の瞬間」をかいた会田雄次は「千葉製鉄所の完成、川鉄躍進が経済界にあたえた衝撃は巨大極まるものだった。それは戦後日本の躍進を告げる烽火だった」これをみて日本の経営者は態度を一変させ、世界が驚くほどの借金をし、大胆な設備投資をするように変貌した。谷沢永一著:「えらい人はみな変わってはる」より
昭和25年に57歳で川崎製鉄の社長になった西山弥太郎は勇猛豪胆な男だった。
川崎重工から」製鉄部門を独立させた、この会社はまだ戦後であるからブリキ屋さんおおおきな構えにすぎなかった。西山の英文の卒業論文「神戸川崎造船所製鋼工場計画」を東大に提出し入社以来主として技術畑を歩んだ。鉄鋼一貫製造が夢だった。まだ虚脱状態にあった日本はさしあたり163億円もの投資には蔵相池田隼人は積極的な賛意をしめしたが、難物は日銀総裁の一万田はこの件とは直接関係ないが、「自動車工業など育成するのは無意味、必要ならば輸入すればよい」というよう発言があった。
しかし昭和36年には粗鋼六百万トンを生産するまでになった。「歴史を変えた決断の瞬間」をかいた会田雄次は「千葉製鉄所の完成、川鉄躍進が経済界にあたえた衝撃は巨大極まるものだった。それは戦後日本の躍進を告げる烽火だった」これをみて日本の経営者は態度を一変させ、世界が驚くほどの借金をし、大胆な設備投資をするように変貌した。谷沢永一著:「えらい人はみな変わってはる」より
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