勝海舟が江戸の治安を策した方法:谷沢永一著:「新潮社えらい人はみな変わってはる」より
彼の幕府の後殿(しんがり)として非常な苦心をした事績はいうまでもない。そのころ官軍に属して江戸に入った諸藩の連中には無頼の徒があって、市中の町人が被害を受けて甚だ迷惑し、安房のもとに訴訟に寄せられる件数は毎日数十通に及んだ。けれども幕府にはそれを取り締まる方法がない。さすがの彼も閉口の態だった。が忽ち膝を打ってにっこり笑った。「伴の廻りの用意をせい」と命令した。何処へ参りますかと尋ねると「浅草観音へ参詣致すのじゃ」という。仕方なしに浅草に行けば、これから「吉原へ繰りこめ」という。吉原の遊女屋金瓶大黒へ籠をいれた。主人の金兵衛が驚きとんで出る。安房は面を正して「少々御無心の儀があって、と切り出し、今日只当家の花魁一同に面会いたしたい」というので抱えの遊君三十余人が集められた。安房は暗涙ののちいとも荘重なる語調で説きはじめるのだった。
「そちたちは御高恩を蒙った徳川将軍にはこのたび大政を奉還された。三百年来の江戸城をお開き遊ばされた事は噂に聞いているであろう。官軍の中でよからぬ者ども常に市中の町民を苦しめる趣まことにもってフビン至極なり、安房守その職にありといいながら、只一人にては如何とも救うすべなし、この安房守腸をかきむしられるほど心苦しく存ずる。よって和女等に頼みたきは、和女等の許へ官軍に名のある隊長筋の人々も参られる事と察すれば、和女等の日頃の手練を用いてその人々へ話し、何卒罪なき町人共をば末派の兵士の苦しめざる様頼んでくれまいかという一儀である、勝安房守ともいわれる余が乱暴兵士の取り締まりすら出来ぬとて笑わば笑え、時節到来、政道の一部を手弱き和女等に頼むも万々拠ないことであるよ」としみじみ説き諭したので美人等は且泣き且激して委細承知の旨を快諾した。果たしてそれが効を奏したものと見え、幾程もなく、町人から難渋願はとんと出ぬようになった。鈴木光次郎が『現代百家名流奇談』明治36年に伝える挿話だそうです。
0 件のコメント:
コメントを投稿