2008年4月20日日曜日

京都の隠れた歴史の跡



新宿で同志社大名誉教授(1928年大阪生まれで、京都の東福寺の隣地に40年住居を構える)「その後の森浩一、平安京の考古学」を拝聴しました。
“考古学は地域に勇気を与える”ということを理想にしている先生です。目下最後のテーマとして「京都の歴史を足元から探る」ことに集中しているそうです。現在2冊「京都の歴史を足元から探る」あり、あと3冊は人工透析をやっているが続けられるといっていました。遠出ができなくなったので、地元を調べているがとてもユニークな論を展開しています。著書にサインしていただけるということで、二胡のチェンミンと今年は2回もサインの機会に恵まれました。
京都の歴史は朝廷や有名なお寺・仏像の絢爛さに目を奪われるが、この平安京以前の姿に注目することも大事でだと言われるのです。
① 近郊に古くから発展した拠点(マチ・邑)がある。醍醐、白川(河)、深草、鳥羽、伏見、嵯峨などで、それぞれの山荘があったようですし、これらの地名が平安時代以降の天皇の諡号(おくり名)となっている。 マチや邑といっても人や物品の集散のある賑わいがあった拠点のイメージだそうです。
例えば醍醐天皇、後醍醐天皇。こういうところには弥生時代の遺跡などがある可能性は出土品もあるし、十分な発掘が行われれば覇者が意図的に隠しているいイメージや平安京以前の分もはっきりするとのことである。。
② 天皇の諡号にはならなかったが、宇治郡の山科や木幡(こはた)も重要でとくに豪族の和邇氏の拠点で、応神天皇が木幡から葛野(かどの)を眺めた羨望の歌は面白い(『古事記』)。山科には天智陵があり、平安時代には先帝の陵の筆頭に扱われた。
③ 平城京→長岡京→平安京へと遷るが、長岡京と平安京は至近の距離(1km)の地にあって遷都の理由が問われる。山部親王(恒武天皇)は政権掌握と維持のため2人のライバルを抹殺した。弟の他戸親王(オサベ) と早良親王である。そのため2人の怨霊を死の直前まで怖れた。平城京と長岡京を捨てたのは2人の怨霊のこもる地を避け、平安京ではそれらの霊を御霊神社に祀った。
④ 平安京は唐の長安を模したとよくいわれるが、羅城門の名は長安城にはないし、平安京では2つの運河(物資の運搬)が重要な役割を持った(造営の指導者が唐にいっていない。都市のなかを運河が通るのは平城京にもあったし弥生時代の小都市(吉野ヶ里にも運河があるとのこと)、にもみられ、日本的伝統があると先生は見ている。
⑤ よく完成された都市として平安京の地図を見るが、果たしてどこまで完成していたか。藤原道長は羅城門そのほかの礎石を盗み豊楽院(迎賓館)の鴟尾を盗んでその鉛を自分の建てる法成寺の瓦(緑釉瓦は鉛を使う)に使った(『小右記』)。平安中期の道長のころは平安京が自己崩壊しだしていたのであるといわれる。

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