2008年4月17日木曜日

弓師


松永重児さんは良質の竹と粘りのある木材・黄櫨(ハゼ)を求めて、九州は熊本の球磨川べりの山中に居を構え、ここで弓師として力強い薩摩弓の特徴をいかして、京弓の軽い調子の冴えを取り入れることに没頭した。同時に
木と竹を接着する長年固形まで至らない順応性のあるニベの改良にも創意と工夫を重ね、弓造りの研究には文字通りの精魂を打ち込みようで心血を注いだ。銘のある「松永萬義」の作品も芸術品の高みに及ぶ名作として愛弓家の垂涎の的となっている。
松永青年は最初熊本にいったときの球磨川の両岸に広がる、竹あり、黄櫨ありの無限の広がり印象にのこっていた。そのころ幸か不幸か身体を悪くしていたので、長男ではあったが家を出ることもできた。しかしお親父はカンカンに怒り、さんざん悩んだ挙句、菊屋橋の弓師の木村さんのところのお内儀さんの「それならお行。しかし、道具を持って行きなさいよ。置いていっては、あとでお前の弓師の親父が泣くよ。あんたは道具を持って行ってやるのが情というもんだよ」(弓師として家をでる。そうなると道具まで取り上げたとなると、親の情もないひどい親だということになるんだと解説している)。お内儀さんは支度金まで用意してくれた。紹介された人々も懇切な人ばかりであった。
大みそかと正月にかけてのとき、普通なら到底無理なものを昨年の関東大震災から命からがら来たのだと口説き落として球磨川の竹を切って御近所の若者に仕事場まで運んでもらった。気持ちは焼網にのせた固いモチを待ち切れず何度も何度も網の上でひっくり返している子供のようだった。中芯の竹をやいたり、側木になるハゼをひいたり、手入れを暇なしで面倒をみて割と早く枯らしたつもりだった。そうしたうえでどうにか第一号を10日間張ってみた。眼前の球磨川で水垢離もし精進潔斎も何日も続け、正月2日より真っ暗い内から仕事にかかった。一心に打っただけあって期待はしているが、形や弓の反発力を整えている藤かずらをほぐすのが怖いようだった。ほぐしてみると我ながら実に良い出来栄えだった。これを神棚に供えて、熊本まで遊びに出かけた。その日帰って弓の棚のしたで休んでいると、弓のやつが踊りだしているにに気がついた。やはり甘くはなかった。
ここで反省したのは、心静かにして、落ち着いた気持ちで十二分にゆったりとした気持ちの安らぎをもって、弓道でいえば、前の澄ましを十分にとって、仕事を始めなければいけないんだーー。やはり仕事の上に造る者の気持ちが乗り移るんですねと筆者は語っている。それから川の流れの音に負けんような大声で詩吟をやりながら、川岸を上下しながら仕事の工夫も毎晩考えた。「肥後三郎(弓銘)――弓に生きる松永重児」復刻版より

こうして拵えられた弓もその使い手の手入れ技量などがまた影響する。怖いものしらずで練習している昨今です。

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