2008年1月17日木曜日

吉川英治:忘れ残りの記


吉川英治:忘れ残りの記
吉川英治は横浜で育った。外人の子供を泣かせると、かならずその子の親父かおふくろがえらい剣幕で異人館の中から僕らを目がけて怒鳴り出してくる。もちろんガナルのも英語である。日本語で怒られるよりも遥かにそれは恐かった。そらっとばかりにぼくらは逃げ出-----しかし、逆にぼくらが彼らに泣かされて帰って場合はどうかというと、ぼくらの母が眼をつりあげて子供喧嘩の干渉に怒鳴って行った例などはいっぺんもない。反対にぼくらは親から叱られて家庭の隅で小さくなっているのがオチだった。

吉川英治の小学校は横浜の根岸の遊行坂も近くの私立だった。校長先生は山内茂三郎先生だった。この先生の奥さんも先生だったが、中流の夫人は御新造さんに先生をつけて呼んでいた。この校長先生夫妻も他の教員の幾人もいたが、夫婦共稼ぎだった。ぼくらはどっちかというと、御新造先生が教壇に立つことを、もっぱら歓迎した。先生は子供の眼にも美人として映った。ぼくは自分のお母さんと、どっちが色白だろうかなどと思いながら先生の襟元や頬の匂いを遠く嗅いでいた。先生は常に髪を夜会巻き※にし袂の長い着物に、紫の袴をはいていた。そのモスリンの匂いすら、ぼくらは感じ残すことはなかった。ただいつも例外なく、御新造先生が困るらしいのは、ぼくら生徒が、やたらに騒ぐことであった。ふざけ散らすのは、意識的だった。目に余ると、教壇を下りてきて「こっちへ、いらっしゃい」と席から立たせ、教壇のわきへ手を引っ張って行かれて罰として立たされるのである。ところが、僕らの秘かな願いは,先生に睨まれて、そうしてもらいたかったのである。御新造先生の楚々たる歩みと、白い手が自分のほうに近づいてくると、胸がどきどきしたものである。その手が他の生徒を引っ張ってゆくと、ぼくはガッカリしてしまった。
※大まかに言うと髪の毛をネジってアップにすると言うような事

●モスリンの匂いとはどんな感じでしょうか?
●写真は蒲郡市博物館の常設展示の灯りの具より

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