2008年1月31日木曜日

運動不得手?


現在の学校体育:脚の速い子、運動能力の優れた子はぐんぐん伸びるが、不器用な子、どこか身体図式に欠落があるように見受けられる子は自分はダメだというコンプレックスを助長する場にしかならぬ。実際、教師や母親にはなすと、私は運動が不得手人があまりに多いのに驚かされる。そう主張する人たちに私は次のような話をし、レッスンを試みてもらう。
---猫はからだがやわらかいと言われているが、「実は人間の方が猫より柔らかい」という言いだしたのいは野口三千三さんだ。「四足の動物は前に行くことはできても、うしろへ歩くことはできない。うしろへ歩くことができるのは人間だけ」自分の体が非常に堅いと思い込んでいる方は一度四つん這いになってネコをやってみるがいい。歩いたり、ごろりところがったり、あくびをしたり、どんなに楽か、そして自分のからだも案外やわらかいことがわかる。たいていの人はかけっこが遅かったとか、跳び箱が飛べないとかというに過ぎない。たいていの人はある運動はだめかもしれないが、ある動作は非常に能力がある。これが普通なのだ。「健全なる精神は健全なる肉体にやどる」はよく言われるが、「健全なる」の意味はそのもの本来の機能を十全に働かせているという意味のほかに、社会に害毒を及ぼさぬという意味をふくんでいる。これは一定の価値基準にあてはめて人を選別し、それに適わぬものを差別する、実際上この有名な譬えはそういう役割をはたしているのではないか。たとえばまっすぐに歩けない子供がいたとします。これは「不健全な」からだだ。
それを「健全」なからだに仕立て上げるということは、ちょうどシンデレラの靴を履こうとして、指や踵を切り落とそうとした継娘たちの愚をおかすことになるのではないか。本来はどのような能力を「育てる」ことによってそれを補うか、それに向かって努力してゆくことだ。そこには固定した価値基準はない。(出典を失念してしまいました)
写真は蒲郡市博物館絵手紙展より

2008年1月30日水曜日

古本屋の商売根性


古本屋の商売根性
古本屋に30分以上入ってみていると、こういう本がないか尋ねると、かなり説得力があって逃げ切れない場合がありました。

俗に古本屋と軽く呼ばれるが、文化を広く流布させて且後世に伝える重要な役割は無視できない。
古本屋は新刊書店とちがって仕入に身銭を切るから、売れなければ丸損となって泣き寝入りとなる。よほど慎重に選んで値踏みしなければならならない。昔から古本屋が倒産した例はないといわれる。
古本屋は在庫品の販売目録を全国の愛書家に送りつけて、注文を待つ熱心な店もすくなくない。
店売りにせよ目録にせよ、これはと思う本にひときわ高い値をつける工夫をヒネルという。又揃いものをそのまま纏め売りか、わざとバラ売りにするかについて思案がいる。
全集や大系ものをどう売りさばくは古本屋にとって難しくもあり、また妙味もある商いのひとつの勘どころだ。普通は全冊揃いの価格の2分の1位で巻数頭割りにし、画一の値段で売ると、必ず売れ残りがでるので、そこでヒネルことのできる巻を見つけて、その分だけ他の値段を落とすのがベテランの腕のふるいどころだ。これにはなによりも売りつける側の知識とセンスが問われる。
古本屋店主との付き合い方は:不用意に接するとご機嫌を損なう。古書を扱っているという誇りをもっている。棚にある本を手に取って見ている態度から、どれほど古書に慣れているかを見抜く。水上龍太郎は大抵古本は言い値で買う。これはまことに心持のよいものだという。先方からひどく馬鹿にされたような嫌な心持がして値切ってみるとか、さもなくば値をつけずに立ち去るのが一般ではあるが・・・。古本屋には先にかいたように、値をつけた根拠があるので、一種の矜持がかれらにはあるのだろう。
好い高い本は割合に得ることは容易であるが、屑物同然の本で入用なものは却って容易ではない。和漢書の端本屋があるが、方々から買い集めてそれをとりあわせて完本を作るという商売もあるそうです。
谷沢永一著:「えらい人はみな変わってはる」より
写真は蒲郡市博物館灯具常設展より

血と油その3


外国からの石油需要を減らすための持続的かつ包括的なエネルギー戦略を採用したことはなかった。つまり石油の持続的供給を「国家安全保障」の問題と位置づけ軍事力の行使を通して防衛しうるものとしたのだった。米国は98年4月に外国石油依存度が50%を超えた。2030年には70%に達すると見られている。世界の需要を満たすためには、ペルシャ湾岸以外の多くの地域では生産量が頭打ちになったり減少したりするため湾岸産油国全体
1日当たりに換算して1999年の4450万バレルを80%増の2050万バレル増産して2020年には4450万バレルにする必要がある。それに例をサウジアラビアにとれば2020年までに倍増の生産量にして達成させることが必要になる(湾岸諸国が裕福とはいえどこれに応じるに、生産インフラには2001年から2020年までの間5230億ドルもの設備費用が必要となるので、こんな巨額の資金の投資を受け入れるには湾岸諸国が考えていることである国有のエネルギー部門完全支配を維持する長年の決意に背くことになる。外国企業の参入を制限している国もある)
ブッシュとチェイニー政権が唯一引き出すことができた結論はペルシャ湾岸諸国には自国の力で石油を増産するとともに、国外への供給経路を守る意思も能力もないというものだった。政府のエネルギー計画を成功させるには、アメリカは湾岸地域で支配的立場に立ち、主要生産国の政治と治安の油田を監督する責務を負わねばならない。採掘量最大化戦略を成功させるにはその増産部分が自国やその他の主要消費国の手に無事に渡るように米国は万全をきさねばならない。つまり危険にさらされている湾岸の同盟国が危険にさらされているならばテコ入れに脅かすものはすべて抑え込まねばならない。三つの課題があった①サウド家のサウジアラビアの政情を安定させる②イランのフセインを失脚させ増産可能な新政府を樹立する③イラン政府に最終的には親米政権を出現させる。
米国内の事情をみれば石油消費量は交通・運輸に多く、アメリカの膨大な数の自動車、トラック、バス、飛行機、列車、船につかわれる燃料の97%が石油製品だ。これほど石油は米国の血液(日本でも同様)になっている。これほど手軽な効率のよいエネルギーがほかにないからなのだ。
「血と油」アメリカの石油獲得戦争マイケル・T・クレア(米国屈指の紛争アナリスト)より
写真は蒲郡市博物館絵手紙展より

2008年1月29日火曜日

血と油その2


写真は蒲郡市博物館「絵手紙」展の全国応募作品のなかから


現在世界人口の5%たらずの国が、世界全体の石油供給量の25%を消費している。このままいけば2025年の消費量は現在の1.5倍に達する。これは産油国の政治と経済の継続的安定に命運をゆだねることになる。1973年から4年にかけての第二次オイルショックのような供給の途絶は広範な石油不足や価格の高騰、世界的な景気後退をきまって引き起こす。外国の石油に依存していれば、米国から供給者の国へ膨大な富がわたることになる。1バレル当たり30ドル(現在ではもう95ドル位で計算すれば下記金額は3倍以上)今後25年間に輸入する石油もの代金は3兆5000億ドルという。外国の主要供給国はこの見返りに国連での支持や新型の兵器の譲渡や軍事力による保護などだ。アメリカの歴代大統領がこのエネルギーと安全保障のジレンマを解決するのに成功した試しがない。(京都議定書のエネルギー問題に米国が同調しなかったのも、このエネルギーについて抑制しない・あるいはしたくないという意図があったからではないかという気がする。イスラエルを建国させたのも、中東に楔をうつあるいは足がかりを作る目的があったからではないかという気さえしてくる)「血と油」アメリカの石油獲得戦争マイケル・T・クレア(米国屈指の紛争アナリスト)より

2008年1月28日月曜日

血と油その1


石油はアメリカを強くしたが、石油を追い求めるあまり、アメリカは独断と専横の道へ進むことになった。「血と油」アメリカの石油獲得戦争マイケル・T・クレア(米国屈指の紛争アナリスト)より

第二次世界大戦の連合国側がつかった石油の7分の6をアメリカの油田が供給した。(しかし外国の石油を調達することが初めて国家安全保障上の問題となったのは、ローズベルト政権のもとだった。サウジアラビアをアメリカの保護下に置き、ペルシャ湾に恒久的に軍隊を配備することで、将来における自国のエネルギー輸入を守ろうと企てた。これによって際限なくこの湾に軍事的関与を深めていく過程をローズベルト大統領が開始したのだ。)戦後アメリカは石油を増産することによって、自国に大きな繁栄をもたらし、ヨーロッパと日本の経済復興を開始させた。しかし決定的な問題が秘められている。40年代末アメリカは増加するエネルギー需要を満たすために、外国の石油に頼るようになった。その後輸入石油の占める割合はほぼ一本調子で増加している。50年代には外国産石油は米国消費量の10%、60年代にはそれが18%、70年代にはその2倍になった。しかし72年から国内の生産量が減少の一途をたどり、ますます輸入に依存せざるを得なくなっている。自国の経済の活力を維持するため、徐々にではあるが、確実に外国の石油に依存度をたかめていった。米国は豊富な石油を安全保障と力の源泉とする国から依存する国へ変貌した。

2008年1月27日日曜日

ステキナ日本


1/10木曜日地上デジ3:NHKpm10:30からでした。
こんなステキナ日本という番組昭和35年の民族資料館にあった写真を片手にNHKのプロジェクトXの声優・田中トモロヲが訪れる。
石川県の白山市白峰地区は850人の住民が住んでいる。そこでおこなわれている伝統行事がある。これは報恩講と言って浄土真宗の行事で「ほんこさん」の愛称で呼ばれている。
毎年の冬の行事で親戚や親しい近所をよんでの食事会で宗祖をしのんで親鸞聖人の好物をともに頂こうというものです。精進料理なので山の幸である春のぜんまいやワラビやら、秋のきのこを一番おいしいところを半年もまえから取っておく。それを大勢の人の手伝いで料理して御馳走する。60セットも用意するが大勢なので2日に分けて招待する。
漆塗りの磨きぬかれたお膳1セットは今の価値でいえば20万円もする朱色のものである。大根と人参のなます、小豆煮、ウド、ふき、まいたけこれを御馳走する仏間座敷は天井が漆塗りになっている。ここは4代の世代がすんでいる。毎日ひ孫たちも仏さんを「今日も一日ありがとう」(子供は多少いやがっている節もみえる)がそれなりの年を迎えると自然と身につき、仏間で手を合わせるのがとてもいい気分になれる。当日は朝の3時から起きて準備する。今年から65歳のせつ子さんにバトンが渡されたが、緊張気味で4時になると薬屋をいとなんできた曾祖母の木下静子さん85歳が伝統の味の確認にくる。一番の御馳走は煮物のような具が沢山入った味噌汁。この「ほんこさん」のとき昔はこのときだけテンコ盛りの白米が食べられたのが今に伝えられている。入っている油揚げもぜいたく品と言われていた。配膳するときは節子さんやあとの2代の主婦が着物をきて丁重に運ぶ。その席での食べ残しは折にして持ち帰る。終わったら近所の手伝いや控えていた家族が食膳につく。知り合いの顔をみてホクホクした楽しい気分になる。

そのときはお墓にはもれなくお花が仏花専用の自分の畑がある。このお墓のお花も年中枯れることなく供えられている。夏にはちょっとでも長持ちするように持参した氷でひやすこともある。幸せは先祖のおかげと思っている。この行事が終わると積雪3mの雪に閉ざされる。ヒイばあさんは「大事なことはユックリやってくる。自分を支えているものに感謝することが伝統につながっている」としめくくった。
写真は蒲郡市博物館で行われていた毎年恒例の全国から応募のあった絵手紙展から

2008年1月26日土曜日

井戸に熊野修験が関係か


新年早々図書館でウロウロしていたら、「鋳物師と梵鐘とまいまいず井戸※1の話」・桜沢孝平著を手にして読んだ中にあったものです。

熊野修験(奥深い山など状況を理解していた)と鋳物師(下の金属精錬業者や熱源の木材が必要だからやはり山の木などが詳しいのか)のことをは関係がある。これが井戸にも関連がありそうなことが興味深いことでした。
鍛冶信仰と水霊信仰を祖神にもつ一族を伴って関東に根付いたことが、武蔵野の各所に地下水を求めた古井戸となって、現れた最初の井戸工法であろうという。
金属精錬業者(金とか銅とか鉄を見つけるために掘るからでしょうか)が水の乏しい土地に井戸掘りの工法を指導した。
彼らの残したと思われる古井戸も近世になってくると、上総掘り※2と呼ばれる竪掘りによる石積み工法の技術による新井戸が掘られてくると、水をくみ上げる重労働も必要がなくなって藤太秀郷らに従ってきた穴穂衆が創始した技術が、この時代になると、専門的石工技術者(井戸の壁が崩れないように石を積んだのでしょう)となって生かされ続けてきたとみられる。
※1まいまいずというのはカタツムリのことで、この形状に似てラセン状に地下に掘り進んで井戸を掘る工法のことです。 写真がそうです。
※2上総地方で創案された井戸の工法 :上総ぼり博物館http://www.chiba-muse.or.jp/KAZUSA/bunka/kzs_hori/index.htm発展途上国の井戸掘りに有効。

2008年1月25日金曜日

危険予知

                                                     
                     
                                      最近、図書館の隣の新店舗に年配の20人位の人々が並んでいます。生活用品を格安で売っているようです。
このようなところに参考によったことがあります。催眠商法で、100円位のものを「買いますか」「買います」から段々高いものにもっていくようでした。
一同声を唱和するので、抵抗感を除くようになっているので、オカシイナと感じました。
何回か通うと、羽根布団というような高額商品を買わされて結局高買いさせるようなシステムではないかと想像します。

うまい話には何かあるという生活感覚
歴史は300年以上で、世界中に1900店以上の支店をもつイギリス最大の金融機関のひとつ、バークレイ銀行の話だ。いつも地元のバークレイ銀行を利用する住人は顧客第一だと褒め称えている。
そんな銀行がある日驚きの広告をだした。2004年11月のロンドンの南部にあるクロイドン支店は「取りにきた人には全員5ポンド(約1000円)差し上げます」と書いた異例のポスターを大きな窓に貼り出した。だが2時間たっても誰一人お金を取りにきた人はいなかった。銀行員はそれを確認し、この試みは失敗に終わったとポスターをはがした。このポスターの趣旨は「顧客がうちの銀行の前を通りすぎるときに何に気をとられているかを知りたかった。人々は銀行のサービス内容よりは派手なブティックのウインドーに気をとられて街をあるいている。接客第一主義のバークレイ銀行はこのことを確認したかったのだ。
イギリスには「すごいことはウソにちがいない」という諺がある。バークレイ銀行の前を通った人々は「銀行が金をくれるなんて何かトリックがあるのではないか」だと警戒したのだ。意味なくお金を受け取るのはあり得ない。そもそもお金が動くのには何らかの理由がある。1000円たりとも、受け取るのは気持ちが悪い。これは正常な感覚ではないか。
イギリス人の格:井形慶子:集英社より

2008年1月24日木曜日

厳しかった父が懐かしい。


厳しかった父が懐かしい
毎日の学科がすむのは午後2時か3時頃である。教育熱心な父が依頼した放課後の特別教授があった。学校の級友はみな帰ってしまい、ガランとした教室の中には僕と英語の先生だけが残っている、“It is a hat”などを繰り返しているうちに窓外は薄暗くなって行き、帰りたさ、遊びたさに堪らなくなってくる。自分でもしらない間に涙をぽろぽろこぼしたりした。これを半年ほどやって9歳の1月からは、もうひとつ夜学の漢文(外史や十八史略、論語)の素読だった。こうして家に帰ると八時か九時だった。父も帰っていて、そして時には父の前で復習させられるが、これが一番ながく感じられるのだった。気を引き締めていても、つい居眠りが出たしまった。そんなとき父から一喝をくらい、縁側の障子をあけたと思うと、外の庭に突き飛ばされたことがある。忘れもしない、その晩は雪が降っていた。母の姿が廊下に見えると「ばかっ、誰が許した。上げてはいけない、戸を閉めてしまえ」。
わんわん泣きながら30分間障子の中に誤った。やがて裸足で台所口で氷のような足を母の手であらってもらった。そして母と一緒に泣きじゃくりながら、もういっぺん父の前に座らされた。父がぼくに課したことは、もちろん父の愛情と信じていたことであろう。父性の大愛と考えたことに違いない。今の父親や教育者には理解しがたいものだろうし、現在の僕自身にも到底できない。しかし今日の親たちのわが子への、あまりにも放任ぶりや甘やかしにまかせている風潮にもいささか疑いがないでみない。時にはかつての厳しい父性に郷愁を感じてことが正直否めないという気持ちが、ぼくにはある。
あるときは大あらしのときであったが、父の会社に弁当を届けさせられたときは、父も上機嫌で兄妹に一品洋食を取ってくれたり褒めたりしてくれた。そんなときは父の姿が又なく温かな大きな父に見えた。吉川英治:忘れ残りの記

2008年1月23日水曜日

ニベもない。


ニベもない「ニベ」とはなんですか?魚のことらしい。簡単にいうと昔の接着材です。
弓道をやっていますと、膠(ニカワ)に出会う。ギリ粉といって右手に弦を引っ張るカケ道具(おおきなグローブ状)につけて指の滑り止めにする。又弦に矢の溝をつがえる場合に弦の部分をはめやすくするために太くしてあって、それには麻を巻きつけるための接着剤です。この接着剤である膠(にかわ)は鹿の皮や骨を細かく切り刻んで煮詰めたもの(エキスの「にこごり」だけではなく、そのもの)が接着材になっている。そのほかに魚から作るニカワもある。
「にべもない」は魚のにべから膠がとれてこれを人間関係の表現にたとえた。
にべという魚や鯉・ウナギ・サメなどの浮き袋から膠をつくるが粘着力が強いのがニベ膠なのです。「ニベもない」というのはこの粘着力がない接着力がない=付きようがない=相手にされない冷たいということだそうです。もともと魚の名前で海の魚で「石もち」よく発達したウキブクロをもっていて「グーグー」と音をだすことから「愚痴(ぐち)」やコイチとよばれていることの多い魚だそうです。

2008年1月22日火曜日

高度成長のきっかけ


高度成長のきっかけ
昭和25年に57歳で川崎製鉄の社長になった西山弥太郎は勇猛豪胆な男だった。
川崎重工から」製鉄部門を独立させた、この会社はまだ戦後であるからブリキ屋さんおおおきな構えにすぎなかった。西山の英文の卒業論文「神戸川崎造船所製鋼工場計画」を東大に提出し入社以来主として技術畑を歩んだ。鉄鋼一貫製造が夢だった。まだ虚脱状態にあった日本はさしあたり163億円もの投資には蔵相池田隼人は積極的な賛意をしめしたが、難物は日銀総裁の一万田はこの件とは直接関係ないが、「自動車工業など育成するのは無意味、必要ならば輸入すればよい」というよう発言があった。
しかし昭和36年には粗鋼六百万トンを生産するまでになった。「歴史を変えた決断の瞬間」をかいた会田雄次は「千葉製鉄所の完成、川鉄躍進が経済界にあたえた衝撃は巨大極まるものだった。それは戦後日本の躍進を告げる烽火だった」これをみて日本の経営者は態度を一変させ、世界が驚くほどの借金をし、大胆な設備投資をするように変貌した。谷沢永一著:「えらい人はみな変わってはる」より

2008年1月21日月曜日

ティファニーの店長


「ティファニーで朝食を」でみていたら、ティファニーの店長らしき人の応対ぶり:男優ジョージペパード(以下J)と主役の女優オードリヘップバーン(以下「O」)とこの支店長のやりとり。 Jが作家原稿料50ドル小切手と懐の10ドルを手に、御祝いに出かけ、「O」になにかかってあげようとした。高級店なので50ドルの予算で考えたが、「0」は気の毒に思って10ドル以内にしようと答えた。 するとおもむろに(このような「店にはあなた方は不似合いではないかと、観客に思わせる)(何を探しているのだろう) 店長:なにかお探しですか(どんな動機で来られたのでしょうと怪訝な表情もせず)   J:10ドル以内の範囲で(おそるおそる)  「0」:豪華ダイヤは年齢がいってからですし。似合うようになるには年季がいるでしょ。 店長:こんなものはいかがでしょう。6ドル50セントです。    (電話のダイヤル回し棒・長い爪の変わりになるのでしょうか) J:もうちょっとロマンのあるものは。お菓子のおまけの「指輪」を差し出した。店長ビックリもせず。 店長:ヒト呼吸・・・・ 「O」:この店のプライドがゆるさないでしょうね。と探りと一押しする。 店長:当店で扱わせていただき、イニシャルを入れましょう。明日出来上がります 「O」&J:顔を見合せ満面の笑み。 これらのシーンはとても再現できないけれど、観客はもう素敵な買い物をして、いい気持ちにさせられ、高級な店はこういう感動を売っているのだと感心させられる。 作:トルコーンカポティーニ  NHKのBSで解説者も同様の感想を漏らしていた。  あるPC店でどの店員が応対にでても感じがよい。ついPCのことならこの店へ足を運んでしまう。このティファニーはNYにいったとき、それほど大きくはなかったし、今思うとチョット買い物をして雰囲気を味わえばよかったと思うが、いかんせん会話力が伴わなかった。

2008年1月20日日曜日

困難な時の決断方法


プロズ&コンズ(ラテン語だそうです。簡単にいえば良い点・悪い点か長所・短所です)
戦後60年経ってもイギリス人のヒーローであり続けるチャーチル首相が対ドイツ戦で戦略を練る場合、情報を収集する組織を使って、現実を把握した。そうしていよいよ最終決断をを下す段階で、これをすすめたらどれだけの損害がでるか、どれだけの勝算があるのか見極めたその試験紙がこのプロズ(Pros)&コンズ(Cons)です。
やり方は簡単で、一枚の紙に紙の中央に縦割りの線を引く。そして迷っている案件について良い点(プロズ)と悪い点(コンズ)を上から順番に書いていき、どちらの件数が多い
、(ウエイトが重いかも入ると思いますが)で決断するものだ。人が混乱するのはMust(ねばならない)とWant to do(したい)の狭間に立つからだ。チャーチルはこの方法で見事に解決してくれた。これが仕事の悩みを解決し、迷える自分の眠りを開かせる近道なのだ。
それは3つの「とうし」も必要だ。「闘志」「投資」「透視」で日本人はこの3番目の透視力が弱いからではないだろうかとイギリス人は見る。
考えて見ると、迫りくるナチスの脅威にチャーチルの決断は素早かった。リストを作り速攻で考えを決断する。
私達はすべてうまくいくにはどうすればよいいかと必要以上に深く考え、白黒をはっきりさせることを恐がる。だから何も決められないまま、問題を放置する結果になるのだ。
「日本人は問題が起こると、じっくり検討しなければいけないと思い、とても長い時間考え続けるため、決断という最終目的にたどり着けないのです。何も決められないまま,時間がダラダラ過ぎてゆく。チャーチルのプログ・コンズはこんな悪習を転換させてくれるエッセンスだ。
イギリス人の格:井形慶子著より

2008年1月19日土曜日

勝海舟の江戸治安の方法


勝海舟が江戸の治安を策した方法:谷沢永一著:「新潮社えらい人はみな変わってはる」より


彼の幕府の後殿(しんがり)として非常な苦心をした事績はいうまでもない。そのころ官軍に属して江戸に入った諸藩の連中には無頼の徒があって、市中の町人が被害を受けて甚だ迷惑し、安房のもとに訴訟に寄せられる件数は毎日数十通に及んだ。けれども幕府にはそれを取り締まる方法がない。さすがの彼も閉口の態だった。が忽ち膝を打ってにっこり笑った。「伴の廻りの用意をせい」と命令した。何処へ参りますかと尋ねると「浅草観音へ参詣致すのじゃ」という。仕方なしに浅草に行けば、これから「吉原へ繰りこめ」という。吉原の遊女屋金瓶大黒へ籠をいれた。主人の金兵衛が驚きとんで出る。安房は面を正して「少々御無心の儀があって、と切り出し、今日只当家の花魁一同に面会いたしたい」というので抱えの遊君三十余人が集められた。安房は暗涙ののちいとも荘重なる語調で説きはじめるのだった。
「そちたちは御高恩を蒙った徳川将軍にはこのたび大政を奉還された。三百年来の江戸城をお開き遊ばされた事は噂に聞いているであろう。官軍の中でよからぬ者ども常に市中の町民を苦しめる趣まことにもってフビン至極なり、安房守その職にありといいながら、只一人にては如何とも救うすべなし、この安房守腸をかきむしられるほど心苦しく存ずる。よって和女等に頼みたきは、和女等の許へ官軍に名のある隊長筋の人々も参られる事と察すれば、和女等の日頃の手練を用いてその人々へ話し、何卒罪なき町人共をば末派の兵士の苦しめざる様頼んでくれまいかという一儀である、勝安房守ともいわれる余が乱暴兵士の取り締まりすら出来ぬとて笑わば笑え、時節到来、政道の一部を手弱き和女等に頼むも万々拠ないことであるよ」としみじみ説き諭したので美人等は且泣き且激して委細承知の旨を快諾した。果たしてそれが効を奏したものと見え、幾程もなく、町人から難渋願はとんと出ぬようになった。鈴木光次郎が『現代百家名流奇談』明治36年に伝える挿話だそうです。

2008年1月18日金曜日

なぜ思いつきの開発しかできないのか


イギリス人の格:井形慶子:集英社より

なぜ思いつきの開発しかできないのか。イギリス経済が順調に発展いてゆく様子にイギリス病という斜陽の時代を転換させたサッチャー政権を褒めたたえる人は多い。日本にもあのような強靭な意志と聡明さを併せ持つ政治家がいたら・・・。
これは政治家の能力の問題だけではないと感じる。有能なリーダー、力ある政党、新しいシステムが生まれる根底には、豊富な生活知識と、それを整理する専門家が必要だ。私達がお金を使うことに躊躇したり、ときに暴走と思えるほどの浪費を繰り返すもは「需要とともに広がる供給」というバランス感覚が日本に定着していないからだと親日家のジャーナリストは語る。「これさえクリアできれば、どんな国の人々でもお金に困ることはなくなる。それがイギリス式街作りの法則があるんだ。」ところが市場調査の末に作られたはずのショッピングセンターや大型ストアはある日突然消えてしまうことがある。最近ではわずか1年に全国の大型スーパーが約200店舗が次々閉鎖、撤退している。しかも大型店舗によって客を取られた地元商店は既に廃業に追い込まれている。こんなブルト-ザー式商戦に引っかき回されたあげく、放り出された住民はたまったものではない。スーパーが閉店し、近くに買い物を求める老人の姿は痛々しい。この問題はスーパーの抜け殻となった建物はスラム化や犯罪の温床になってきている。
少子化日本で独り勝ちしている住宅は都心のマンションと言われている。郊外の戸建はチラシをまいても、値段をさげても客がつきにくい。こんな勢いまかせの開発によって崩された地域の人々の生活や経済のバランスは元に戻らない。マイナスだらけの誰もとくをしない開発。それを未然に防ぐ街つくりをイギリスで見つけた。ケンブリッジではもともとあった街の外角をすこしづつ押し広げていく他のイギリスの街と同じ開発方法で住宅をたてていった。「街はいきものだ。広い空地があるからと、1拠点に集中して住宅や商業施設をつくったらもともとの街の機能が崩れてしまう。そう説明する都市プランナーは「ネガティブ・アンエンプロイメントの法則」を教えてくれた。「たとえば、このケンブリッジに5000人の従業員を雇用したい企業がやってきたとする。それに対して住宅が3000しかなければ企業は2000人の人出不足となってしまう。その結果ビジネスが成り立たず、企業は他の街に誘致されてケンブリッジから出て行ってしまう。こうして街は大事な法人税を落としてくれる企業を失ってしまう。逆に5000人がすんでいたとしても3000人しか雇用ができない場合は仕事不足になる。企業を誘致する段階で、雇用者と住宅のバランスを取るかが、街を健全に生かし続けるポイント。それをコントロールする都市プランナーの役目は政治家以上に重要だといった。

2008年1月17日木曜日

吉川英治:忘れ残りの記


吉川英治:忘れ残りの記
吉川英治は横浜で育った。外人の子供を泣かせると、かならずその子の親父かおふくろがえらい剣幕で異人館の中から僕らを目がけて怒鳴り出してくる。もちろんガナルのも英語である。日本語で怒られるよりも遥かにそれは恐かった。そらっとばかりにぼくらは逃げ出-----しかし、逆にぼくらが彼らに泣かされて帰って場合はどうかというと、ぼくらの母が眼をつりあげて子供喧嘩の干渉に怒鳴って行った例などはいっぺんもない。反対にぼくらは親から叱られて家庭の隅で小さくなっているのがオチだった。

吉川英治の小学校は横浜の根岸の遊行坂も近くの私立だった。校長先生は山内茂三郎先生だった。この先生の奥さんも先生だったが、中流の夫人は御新造さんに先生をつけて呼んでいた。この校長先生夫妻も他の教員の幾人もいたが、夫婦共稼ぎだった。ぼくらはどっちかというと、御新造先生が教壇に立つことを、もっぱら歓迎した。先生は子供の眼にも美人として映った。ぼくは自分のお母さんと、どっちが色白だろうかなどと思いながら先生の襟元や頬の匂いを遠く嗅いでいた。先生は常に髪を夜会巻き※にし袂の長い着物に、紫の袴をはいていた。そのモスリンの匂いすら、ぼくらは感じ残すことはなかった。ただいつも例外なく、御新造先生が困るらしいのは、ぼくら生徒が、やたらに騒ぐことであった。ふざけ散らすのは、意識的だった。目に余ると、教壇を下りてきて「こっちへ、いらっしゃい」と席から立たせ、教壇のわきへ手を引っ張って行かれて罰として立たされるのである。ところが、僕らの秘かな願いは,先生に睨まれて、そうしてもらいたかったのである。御新造先生の楚々たる歩みと、白い手が自分のほうに近づいてくると、胸がどきどきしたものである。その手が他の生徒を引っ張ってゆくと、ぼくはガッカリしてしまった。
※大まかに言うと髪の毛をネジってアップにすると言うような事

●モスリンの匂いとはどんな感じでしょうか?
●写真は蒲郡市博物館の常設展示の灯りの具より

2008年1月16日水曜日

国への信頼感


東京から3年ぶりにロンドンに戻ったイギリス人デザイナーはスパゲッティ一皿2000円 、地下鉄も初乗り運賃が約600円と格段に高くて東京の生活実感の1.5倍だ。世界の資産家が集まるほどの弾力的な税制と入管制度が引きつけている。トップに名を連なるのはイギリス人ではなく、ロシア人、アラブの実業家といった外国人だ。一位のロシア人実業家は、アブラモビッチ氏の総資産は約1兆1800億円だそうです。
家をローンで購入する多くのイギリス人は、その返済を定年間際で終了できるように組む。
そしてローンが終わる定年後は家を売却し、ダウンサイジングして小さな家に住み替え、余剰金を老人ホーム入居費用などの生活費にあてる。
私たちが銀行に預金するお金をイギリス人は家につぎ込み、リフォームや庭つくりなどに精をだし、魅力的な住まいを維持することで、自分の資産を膨らませていくのだ。
又弱者をまもってくれるという国への信頼感がある。
イギリスでは高齢化社会に向けて、移民政策を緩和し、特殊技能者、技術者を中心に外国人を受け入れている。自国で減少する労働力を確保し、外国人に税金を納めてもらうことで高齢化・少子化のダメージを食い止めている。

又個人主義のイギリスでは親が恋愛に干渉しない。そのためティーンエイジャーのシングルマザーがEU諸国で最も多いといわれている。イギリスでは若い母親が生きていけるように育児設備を整え、非嫡出子を社会的に認知して児童扶養手当を完備して優先的に公的住宅に住まわせることに力をいれている。こんな実績から移民を含めたイギリス国民は、最終的には国を強く信頼している、どんな局面でもマイナスからプラスのひねり出すイギリスの決断力と行動力を見てきたからだ。彼らが不安にかられ貯蓄に励んだり、生活ストレスからやけっぱちになって大量にモノを買わないのは、こんな国への信頼がベースにあることは否めない。
イギリス人の格 井形慶子著より
この井形さんのHP:http://mrpartner.co.jp/

2008年1月13日日曜日

煙の立たない暖。籤引き結婚


インディアンを防ぐ要塞をつくった。こんな要塞でも大砲のないインディアンを防ぐには十分であった。こうして安全な足がかりができたので、数隊に分かれて辺りを探索した。近くにこの要塞の工事をインディアンがうかがっていたと思われる場所が所々にあった。冬のこととて火が必要だったが普通のように地面に燃やしたのでは、その明りで遠方からでも彼らの居場所が分かってしまう。どうしたかというと、直径と深さがそれぞれ90cmの穴に手斧で炭を切り、小さな火をおこし、足を温めるために足をだらりと下げる方法を用いて、炎や火花で煙が立たない配慮していた。フランクリン自伝より

モラヴィア派というルター派の宗教集団があるそうです。この派では結婚をくじ引きで決めるという噂があるが、本当かどうか訊ねたところ、くじは特別の場合に限って用いられるので、普通は青年が結婚したくなると、自分の組の年長者にそのことを話す。そうすると彼らは若い婦人の監督をしている年配の婦人たちに相談する。この男女の年長者たちはそれぞれの自分の監督のもとにある若い者の性癖や気質をよく呑み込んでいるから、誰と誰とを結婚させたらよいか、一番よく判断ができる。それでその判断はたいていの場合、同意されるのである。だが、例えば一人の青年に対して同じ程度に適当な娘が2人も3人もあるような場合には、くじということになるのだそうです。結婚が本人たちも双方の選択によらずに行われるとすれば,時には非常に不幸な場合も起こって来るのではないかと異議を唱えると、話してくれた人の答えは「いや本人たちの好きなように選ばせてみても、不幸な場合は起きますよ」という答えだった。(今の時代ではなくフランクリンの生きた年代は1683年―1790年です。1776年が米国独立宣言になされている。フランクリン自伝より

2008年1月12日土曜日

オーブン・ストーブ


オーブン・ストーブ
ベンジャミン・フランクリンの自伝を読んでいたら、ペンシルバニアのフィラデルフィア(米国の建国の地区で印刷の仕事をしていて、さらに良い技術を学ぶためにロンドンにわたり1年間滞在していた。結婚の約束はしていなかったが、一度だけ手紙を出していただけなので、戻ったときには別の男性と結婚したたが、もう離婚していた。なかなか縁がなくて女遊びもしたとか、自分のマイナス面も率直に書いている。それは息子に人生の知恵を授けたいということの意味もあったようです。
そのなかで、オーブン・ストーブ※を発明した。このストーブは、新しい冷えた空気を燃焼させる部分に入る前に、暖める仕掛けになっていた。従来のものよりも暖房にもよく、同時に燃料の節約になった。その模型を古くからの友人に贈った。この友人は溶鉱炉をもっていたので鋳造を始めたところ、ストーブの需要が次第増してに彼は大分儲けた。フランクリンはこの新発明のパンフレットを自分の仕事である印刷だけを行っただけだった。
これらの発明について、フランクリンの主義はわれわれは他人の発明から多大な利益を受けているのだから、自分が発明した場合にも、そのため人の役に立つのを喜ぶべきで、けして惜しむことがあってはならないという考えであると。この時代はのどかだったのでしょうか。本人の謙譲の面も大いにあるようです。
※ストーブの上にオーブンが載っている形で、空気の取り入れが冷たい空気をあっためたうえで燃焼部に導入している形状です。

2008年1月11日金曜日

定年には趣味優先も


イギリス人の格:井形慶子:集英社
ロンドンで大手広告代理店の副社長だった60代男性の趣味はカビだった。彼は在職中からコケをはじめ食品につくカビだった。あらゆる種類のカビを集めては、世界中の専門店から買いそろえた顕微鏡でその組織を調べていた。自分の会社に所属するCMディレクターの日本出張が決まったとき、この副社長は申し訳なさそうに「実は・・・東京についたらカビを探してほんの少しだけ持ち帰ってくれないか・・・・」と頼んだという。常識的なこのディレクターは、植物の持ち込みは法に触れるからダメだと断った。副社長は一瞬、言葉を失ったそうだが、「いや、悪かった。君にこんな面倒なことを頼むつもりはなかった」と反省し、このおかしな趣味をあきらめるかのように見えた。ところが彼はリタイア後もカビの研究にいそしみ、日本をはじめ世界中からカビ関連の書籍を買いあさっているという。イギリスでは企業のトップは平均年収は約1億1800万円とヨーロッパの各国の平均より2000万円も高い。地中海をクルージングすることもできる筈だ。広告業界で名をとどろかせている副社長は、社長から任期延長を受けてくれれば3ケ月間の世界一周の豪華客船の旅をプレゼントしようという社長の申し出をあっさり辞退した。カビの研究にもっと時間が使えると、60歳の誕生日に喜んで会社を辞めたという

2008年1月10日木曜日

私が愛した官僚たち


私が愛した官僚たち:横田由美子[AREA]「論座」「日刊ゲンダイ」「現代」「新潮5」などに、」IT企業、政治、官僚についてリポートするライター。
●日本は役人天国なので、役所の規制や動向を熟知している人がいたほうが民間の会社でも戦略が立てやすい。社会のなかで「役所の地位」が目に見えて墜ちてきている。
●若手の元官僚には外で培った能力を再び役所にもどって生かしたいと考えあちこちの会社を漂流している人がすくなくない。事実「任期付採用制度を利用して、外務省の経済協力局に雇用されている。
●自治省に官僚は入省してすぐ地方に出て、20歳代後半には市役所の部長クラスで出向。次は都道府県で財政課長クラスに出向。30歳代後半で本省にも
どり、40歳ごろ都道府県の総務部長。その後も知事や市長などあらゆる可能性が開ける。だからよほどにことがない限り辞めないし、国政を目指すとしても50歳をすぎてからという人ばかりである。
●金融問題などは課長補佐は課長に説明した後、審議官、局長、次官の決裁を経てようやく大臣にたどりつく。併せて他官庁、自民党有力議員、政調へのねまわしを行う。こんな「亀」のようなスピード感では世界で戦っていけないのでは。「財務省にもっと権限があれば、こんあに国の借金は増えなかった」
政治家は権限があるが、専門知識がないから決断できない。役人からペーパー
が上がってくるのを待つしかない。「権力と権限にずれがあること。それがいまの政と官との最大の問題点」
●どぶ板選挙で叩き上がってきた政治家は財政の健全化にはまるで興味がなく、道路やダムなど、選挙区にどう利益を誘導するかだけに集中していた。公益を達成したい政治家はいるのか・・・残念ながら願望にすぎない。
国民の税金を使って選挙区に利益誘導するだけでは、財政の悪化の一途をたどるだけである。いっぽう民間の側も補助金や公共投資に頼るだけでは創意工夫や自主性が失われ活力ある社会は生まれない。与謝野馨や谷垣禎一といった政治家が財務官僚から人気が高いのは「本質論」がわかっているからだという。
一般論だが「財政通」といわれる政治家は官僚にとって都合のいいことを言わされている人たちである。
●」無駄遣いを止めることができないのも、官庁で不祥事が続発するのも、終身雇用が守られていることに最大の理由があるという。競争やリストラが内から危機意識もない。いまだに福祉会館や勤労会館など、雇用保険をつかって「ハコモノ」を作り続けている。同じ組織にいれば馴れや甘えができる。
●財務省にもとめられること:いまや国と地方の借金は約八百兆円どころか千兆円に迫る勢いだ。現状では仮に消費税を10%引き上げても、その大半は借金返済に回さなくてはいけない。「あたらしい事業をしよう」という議論は少なかった。上司は「やめましょう」というのがほとんどで、「やりましょう」は2~3割だった。財務省が新しい事業や仕組みを果たせなくなっている。たとば予算が八十兆円あると、そのうちの相当部分が国債費とあらかじめきまっている。税収がのびないと官僚はほとんど頭をつかわなくなってしまう。
多くの財務官僚が「これからはマイナスの仕事ばかりだ」と口をそろえる。今後財務省にもとめられるのは何なのか。その答は、まだ見えてこない。
●役所で名をあげたと評価されるのは「AREA」「噂の真相(休刊)」「2ちゃんねる」で批判を浴びたときです、この3つで叩かれれば、大物官僚とみなされます。
●キャリア官僚は、幼少のころより英才教育を受けられる金銭的余裕のある層に限られている。2世や財界、政界の子息がゴロゴロしている。この中に地方の普通の家庭に育ち、公立高校から東大に進学したような「元・神童」が入ると「勉強だけできても意味がない」という無力感を強く感じる。大した努力をすることなく勉強ができてしまうのは最低必須条件で、スポーツ万能で、芸術にも造詣が深く、女性にもモテるという「スーパーマン」を目指してしまうことになる。
●財務官僚は退職後も仲間意識が強く交流が深く、相互に応援体制ができている。
●財務省より経済諮問会議のほうが政策決定権が強くなっている。

2008年1月9日水曜日

いろんな見方・考え方


伊藤緋沙子という通訳の方の話しです。
日本のテレビには連日同じ顔触れのタレントの内容となっています。しかし世界はレバノンの情勢に注目しニュースを流していた時の国内では非常に狭いニュースを流している。日本ではみんな同じ情報を共有することによって、人の目を気にしすぎる所に囲まれていることになる。これでは世界全体が見えない。フランスでは子供の成長過程でCMが害であるというキャンペーンが盛んになっています。子供達がその商品がさも一番美しく・素晴らしい絶対的価値観を植えつける危険性があるということを危惧しているからです。「みんな一緒」の日本でなおさら「イジメ」を脱却する力は育ちにくいのかもしれません。いろんな見方・考え方を認めればイジメに耐え、脱却する力が備わってくる。日本のテレビはスポンサーが注目する視聴率にかかっているので、とくに島国である日本は外国の出来事をながさないようです。NHKで海外放送を聞いていると、各国にいるかたの報告が入るのを聞いていると、日本人の見方・考え方は一つの見方にすぎないというふうに感じます。

2008年1月8日火曜日

バリアフリーの科学


バリアフリー科学の夢:
福祉工学という分野があるそうですが、弱ったり失ったりした聴覚、視覚、手足などを技術で助けるための研究をしているそうです。実用されている例は
発声障害者のための「人工喉頭(製品名:ユアトーン)・㈱電制との共同研究、聴覚障害者のために声を字幕にする「音声字幕システム」・㈱ビュー・ユー・ジーとの共同開発や触覚に伝える「タクタルエイド」・㈱ティジーとの共同開発、視覚障害者のために伝える「音響バーチャルリアリティ」さらに弱った手足のリハビリテーションのためにいかす「MH(水素吸蔵合金)アクチュエータ」などがありそうです。福祉工学は体の一部が低下したり失われたりしても快適な生活が送れるようにするのが目的で、医療の目的と変わらない。ただし福祉工学は障害を直すのではなく、技術によって生活の場や体の機能を補完するという立場をとります。
人間の脳には、環境の変化や機能の低下・欠損によって、今まで使われていなかった脳のある部分が働きだし、新たな能力が生みだされる面があります。手を失った人が足で自在に文字を書くようになり、視覚を失った人が音だけで部屋の大きさや、目の前の障害物の存在を感知するようになるといった例が挙げられるそうです。これを脳の可塑性とよんでいて、それによって代償機能が生まれますので、これを壊さないように補完することが大事だそうです。その一方で難聴になると、単に聴力が落ちるだけでなく、言語の処理能力が変わったり遅くなったりする脳の変化もでるこがあります。声を大きくして耳から脳に送るだけでは高齢で難聴を人たちの約半分が役にたたないといいます。脳内の言語処理の状態を検査し、その結果に合わせて補聴器を設計する必要があるそうです。バリアフリー社会は工学的な技術開発だけでは実現しない。ものを知覚する脳の働きやそれに伴う人間行動の研究、バリアフリー製品が普及したときの経済効果の調査、ユーザーによる評価が必要になります。
伊福部達先端科学技術研究センター教授http://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/
より

2008年1月7日月曜日

所得格差を高齢者の増加と言い訳した理由


所得格差を高齢者の増加と言い訳した理由:
団塊の世代と人口減少:日本の団塊世代に相当するのは、日本の場合は1947年から1949年の3年間でこの年代は700万人弱と突出している。
団塊世代の人たちは、チャレンジ精神を失っていないので、社会を変えることができると思います。2005年の国勢調査によれば、65歳以上(高齢者というが、75歳以上は後期高齢者という)は人口の20%を超えていますが、15歳以下の子供は14%弱しかいません。実は団塊世代と人口減少は密接な関係をもっています。米国のベビーブーマーです。これは1946年から1964年の19年間です。松谷昭彦著『「人口減少経済」の新しい公式』によれば、当時の厚生省(現在の厚生労働省)が人口を調節したからです。1941年、政府は強い国を作るために「産めよ増やせよ」の人口政策を掲げました。その後、日本は第二次世界大戦に突入しました。終戦直後、平和な時代がおとづれたことから、出生数が増加しました。さらに,旧植民地からの引き揚げや復員兵の帰国により、国内の人口が急増しました。(この時期に国の政策に単純に呼応したのかという疑問はのこりますが)人口の急増と終戦直後の不況により食糧の需給バランスが崩れ、食糧不足が深刻化しました。ここまでは、多くの人たちが餓死すると考えた厚生省の役人は、人口増加策から人口抑制へ、180度方針を転換したのです。1984年に優生保護法が施行されました。人工妊娠中絶を合法化することによって、産児制限をしました。その結果1950年以降出生数は激減しました。ちなみに、このような大胆な産児制限をしたのは、世界中で日本だけです。その副産物として人口構成がいびつになりました。団塊の世代の高い山の後、出生数の急減による深い谷が形成された結果、2005年から日本は人口減少に転じたのです。一度始まった人口減少は、最低100年は続くそうです。人口の山と谷があまりにも大きいので、積極的な移民政策をとっても、人口減少を食い止めることは不可能です。このように人口が減少し、社会に活力が失われつつあるので定年退職を迎える団塊世代に注目が集まっています。
OECDは2006年、2000年に相対的貧困率がOECD加盟国のなかで米国の13.7%に次ぐ世界第2位の13.5%になったことを公表した。相対的貧困率とは生産年齢人口(15歳から64歳までの)可処分所得(税金や社会保障などを引いた手取り収入)が中央値の半分以下ない人の割合を示す。政府は、格差社会の原因は高齢者の増加だと言い訳をしました。
このOECDの報告書は正規雇用者と非正規雇用者の所得格差の拡大が原因と指摘しています。

2005年の賃金構造基本統計調査によれば、正規雇用者の賃金水準を100とすると、非正規雇用者は男性64、女性70となっています。非正規雇用者の問題を放置すれば、米国と同様に、中流家庭が激減して、少数の上流家庭と多数の下流家庭に2極化する流れを避けることができません。
最高税率は法人税は1988年に42%→1999年に30%に、一方所得税は1983年75%→1999年37%と半減した。米国は1%の人口が40%の富を持つという貧富の差が激しい社会です。米国は世界一豊かなイメージがあるが、それはほんの一部でしかありません。

2008年1月6日日曜日

教師の仕事と演劇


フリップ・プルマン「ライラ」からの手紙、マーガレット・S・ユアン著中村佐千江訳。教師の仕事と演劇
プルマンは3つの学校で教師を務めた。1970年代のはじめには生徒に何を教えるかは教師が自由に決めていいことになっていた。プルマンにとって教師の仕事は自分の創造性や才能や興味を子供達のために役立てるよい機会だった。彼は生徒たちに物語をし、自由に文章を書かせ、あまりテストをしなかった。ある学校では図書館も作った。またおそらくこれが一番重要なことだが、プルコンは教師時代に学校演劇の脚本を沢山かいて演出したことだ。
プルコンはこう書いている。物語を語るときに本当に恩恵を受けるのは実は聞き手よりも語り手なのだ。物語を語ることにしたのは、教育によいと考えたからだ。偉大な物語を何度もくりかえし語りきかせ、よりよい言葉を探し聞き手の反応を窺いつつ少しづつ間合いやリズムやペースをつかんでいくことは三千年前ホメロス自身が体験したことではなかろうか。そう考えれば考えるほど
幸運に感謝する気持ちでいっぱいになる。なにを教えれば一番生徒たちのためになるのか、どうやってそれを教えればいいのか自由に決めることができたのだから。いまだったらそういうことは許されないだろう。

プルマンは「ガーディアン」という新聞に次のように書いている。教師達をしばりつけている機械的な文章指導法には疑問を感じている。指導手引きを見ると、文章力テキストではきかり15分なにかを書かせ、残りの45分で書き上げるよう指導せよと書かれている。しかしよい文章はそんなふうに生まれてこない。又気の毒な生徒たちが教え込まれているように計画・下書き・書きなおし・仕上げ・編集という段階を踏んで文章が生まれてくるわけでもない。プルコンは文章の書き方を夜釣りにたとえている。“物語を書くのは夜中に小船にのって釣りをするのに似ている。海は自分よりずっと大きく手持ちの小さなランプの灯りではごく狭い範囲しか照らせない。光に誘われて魚が集まってくるかもと思って待っているが、もしかすると一晩中座りこんでいても一匹も釣れないかもしれない”まわりをとりかこんでいるのは静けさとたっぷりとした時間だけだ。おだやかな気分だが眠っているわけではないのだ。

2008年1月5日土曜日

マンションの管理組合の理事長の適性


マンションの自主管理(管理会社にたのまない方式)を一人で切り盛りする女性理事長:ゴミ置き場が道路面に近いところにあると、通行人が置いていくこともあるが、先ずその場所は特別に奇麗にしておき、外部の人にも厳しく抗議、又内部の人にもキチンとしてくれるように指導。袋には部屋番号を書いてだしてもらう。しかしそれを破った人を発見した時の罰則は3ケ月のゴミ置き場の清掃をしてもらう。
自転車置き場に外部の人が置いてゆくのを防止する方法は「ここは地震等があった方に義捐金を送るために協力してくれる方々の場所」ですと掲示したら全く無断駐輪がなくなったそうです。
マンションの理事長には適性があり、持ち回りの理事長制度では不熱心でだらしない人になると、規律が乱れるので、そういう選出の方法はとらないそうです。
(やりたいという人がいれば助かる訳ですが・・・)。
理事をやりたくない人は管理費を高く払うことにしているそうです。

2008年1月4日金曜日

骨髄移植など


12/15NHK3chpm11:30科学最前線
みなさんもご覧になった方もいることと思います。IPS細胞は万能再生細胞で世界で初作成したのは京大の山中伸弥教授です。文部科学省も5年で100億円投入すると総合科学技術会議で決めた。これは大いに期待したい事柄でした。

次は骨髄移植の偉大な効果です。
東京医科歯科大学消化器内科岡本隆一准教授:男性から骨髄移植を受けた女性の小腸に男性の染色体yが見つかったが、これは腸を直すために応援に駆けつけ(腸に変身して修復するために)働いている。
日本の場合は脳、ドイツの場合は心臓への臨床試験が行われている。
日本医科大学の片山泰明教授の評価は、再生医療のIPS細胞はなんにでも再生できる。この場合は拒絶反応がないが遺伝子操作を行うので危険性の確認を要するとのこと。ES細胞は受精卵なので倫理的問題を解決する必要あり。
ドイツのフランクフルトでフォルクさんがサッカーの途中に心筋梗塞で血管がつまって其の先に血液がながれていないので心筋細胞が死んであるいは堅くなったので血管を広げるために、本人の骨髄幹細胞を採取して注入、治療4月後弱っていた部分の血管付近に新たな血管経路ができて1年後にはアルプス登山ができる身体に戻った。フォルクさんだけでなく、重症の患者でも従来の3倍の能力アップにつながっている。眠っているのを再生させるのである。
札幌医科大脳神経外科の先駆的に治療としては本望修医師は3人の患者のうちの臨床試験の一人で説明すれば、患者名登り口さんへ2/4左手の指・腕が麻痺した。脳梗塞によるもので発症後直線に歩けない、左手が前に出せないなどの障害があった。脳に1度傷がついたら元に戻れないと考えられていたのが、骨髄盤から骨髄を採取し、幹細胞を1万倍に増殖して1月後に投与したが、唯の一回だけであるが、治療5時間後に一部脳細胞の修復がみえて翌日には指が動くようになり、2週間後には腕が、3週間後にはまっすぐ歩くことができた。脳の血流がよくなっている。
北海道大学では傷をうけたところの細胞がSOSの信号をだしているので、そこに骨髄液から指令をうけた治療細胞が応援に駆け付けるようだ。骨髄注射は治療部位の近いところにすると早くなるなどの確認等、まだ研究改善の余地があるものの将来性に期待がもてる治療だそうです。

2008年1月3日木曜日

接待と談合の歴史


おはようございます。おせち料理ももうなくなりました。やはりこれがあったほうが正月の気分が続きます。そうはいうもののコンビニでも、スーパーでも買うのには困りません。

接待と談合の歴史:(歴史を考えるヒント・新潮選書・網野善彦)より
備中国新庄の文書元弘3年(1333年)に書かれていること。国司の上使が83名の一行がきたときの接待した代官は朝夕酒肴を調え、酒も出した。織物の引き出物を渡したと記されていた。こうした饗応は「供給」と呼ばれ、日本社会に古くから根付いた習俗であった。このように酒宴をもようし、余計な口出しをさせないで無事に出て行ってもらうのが代官として最も賢明なやり方だったそうです。また正月に百姓と一緒に酒を飲むときの費用も、代官は必要経費として年貢の中から支出することが認められていた。
百姓に年貢や公事を納めさせることは当然に大事な仕事だった。そのために正月や、年貢を倉に納められた「倉付き」のときには大盤振るまいをしたのです。
同じころ若狭国太良庄の地頭は正月に酒宴もせず、酒粕の汁しか与えなかったので、百姓から追放されており、いかに酒宴の意味が大きかったかがよくわかります。

何かを期待する談合というと暗いイメージですが、昔は冠婚葬祭も酒宴の席があり、和み睦あう意味の内容が濃かったのでしょうか。
イエローポスト

2008年1月2日水曜日

敵意を超えた勇気


敵意を超えた二つの勇気
  米国のイラン攻撃が取りざたされている。そんな中でイランのアフマディ・ネジャド大統領が国連総会に出席した際、米国コロンビア大学で講演をするという出来事があった。この事について10月1日の毎日新聞「東論西談」がニューヨーク支局の小倉孝保記者の報告として掲載している。実にいい報告だ。国際政治もまんざらではない。  小倉記者は問う。「独裁指導者がずらっとならぶ中東にあってアフマディ・ネジャド大統領は選挙で選ばれた指導者だ。しかもイランは9・11には関与していない。なぜこれほどまでにイランの大統領は米国に嫌われるのか」と。それは米国の外交を左右するイスラエルにとっていまやイランが最大の脅威であるからだ。  講演前、コロンビア大学には「独裁者に発言を許すのか」と中止要請の声が相次いだが、大学側は、「考えを異にする者にも発言の機会を保障することこそ我々の信条」とはねつけた。この大学側の勇気がいい。その一方で、ボリンジャー学長は、ゲストであるアフマディ・ネジャド大統領におもねることなく、「狭量な独裁者」と批判したという。これも毅然としている。  そのアフマディ・ネジャド大統領は、会場にあふれた5000人超の学生の前で、たった一人でステージに立ち、話し、質問に答えた。  「どうして核を持っている国が、持たない国に対し核を持つなと迫れるのか」、「欧州の問題のツケをなぜパレスチナ人が支払わなければならないのか」などと第二次世界大戦後の欧米主導の世界秩序への疑問を投げかけた。講演の内容は殆どが真剣に考えるに値する内容で、聴衆からはしばしば拍手が起きたという。  小倉記者は書く、「一国の指導者が、敵視されている国に乗り込み質問を受けることが、どれほど勇気がいることか。それは日本の首相が北朝鮮で講演したり、ブッシュ大統領がキューバの学生の質疑を受けることを想像すればわかるだろう」と。  演説後、小倉記者は学生に聞いて回った。「イランの指導者が何を考えているのか直接聞けて良かった」、「言われているほどむちゃな大統領じゃなかった」、といった感想が多かったという。  そして小倉記者は締めくくる。  「コロンビア大学とアフマディ・ネジャド大統領が示した二つの勇気が、敵意を書きたてようと扇動するメディアを凌駕した」と。政局に明け暮れる日本の政治家がなんと矮小に見えることか。

2008年1月1日火曜日

瞬間をとらえる難しさ


あけましておめでとうございます。ことしはどんな伝説を作ってくれるでしょうか?

大リーグの伝説(2007・10・22朝日新聞夕刊)
1975年のボストン・レッドソックス対シンシナティ・レッズ。7戦中6戦が逆転試合という凄まじいワールドシリーズで、最終的にはレッズが4勝3敗でチャンピオンになった。名場面がうまれたのは第6戦だ。試合は6対6の同点のまま延長12回裏、レッドソクスの攻撃に。先頭打者、カールトン・フィスクが右打席に入る。2球目を叩いたフィスクの打球はグングンのびてレフトポール際に向ってゆく。フェアなら劇的なサヨナラ本塁打だが、ファウルかもしれない。このどっちになるか判らない状況での打者フィスクの姿の名場面。この名場面を文章にしている人が多い。ロジャー・エンジェル著『アメリカ野球ちょっといい話』(1981年、集英社、訳・村上博基)からの引用だ。「ファーストへ向かいながら、彼は必死に手をふりうごかし、背をまるめ、身をよじり、くるくるまわりながら、打球がフェアであることを祈り、とうとう全身でフェアにしてしまった。」この文章を例に上げた理由が2つある。まず、この文章の直前に大事なことが書かれているから、みんながテレビでみたものを見損なったフィスクの姿である。そうこの名場面はテレビ中継のおかげでなのだ。球場にいたら気づきもしない。もう一つの理由は、この文章が不正確だから。著者がこの文章を書いた頃はビデオが普及していなかったので、実際の映像を繰り返し見ることができず、テレビ中継を見ていた人の話だけを頼りに書いたのだろう。でも今、私はこの名場面のビデオもDVDももっている。でもっと正確な文章が書ける。「レフト方向に体を向けたまま一塁に進み始めたフィスクは、軽くジャンプしながら両腕を胸の当たりで懸命に振ってボールよりフェアになってくれという仕草を3回ほど繰り返し
た。そして本塁打とわかると、体を一塁方向に向け、両手を頭上に挙げて歓喜のジャンプをしながら前進して行った」。・・・・ね、かなりちがうでしょ?慶大医学部准教授向井万起男(宇宙飛行士向井千秋さんの夫)