2009年11月14日土曜日

武田百合子さんの「いたずら好き」



おはようございます。私たちの住宅地は袋小路ですが、入口のところは都道です。
もう1週間になりますが、鍵をつけたままの自転車が乗り捨ててあります。どういう理由なのか気になります。

日日雑記:武田百合子※(武田泰淳氏の奥さん)全作品の7から:
※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E7%99%BE%E5%90%88%E5%AD%90
赤瀬川原平さんの百合子さんの紹介によると、「ナマコをはじめて食べた人間が書いたような文章をかく」だそうです。エイリアンとは違う。宇宙の人という感じである。
畳の部屋での対談だった。2人の横からカメラが構えられていた。目の前で百合子さんが座布団に座っていて、座り直した。そのときぱらぱらと脚が見えて、座り直してからスカートの裾をちゃんと正して脚を隠すわけだが、そのときぼくは不覚にもその脚に
視線をやってしまった。非常に困るのですが、動くものに目がゆくのは自然で、その視線が男の目になっていたのか、自分でも非常に気になる。とくに「路上観察」をやるようになってからはそうだ。そうしたら百合子さんもやっぱり、その視線にあれあれ?と思ったのか、対談しながらぼくの顔をじっとみている。顔というより僕の視線の動きをじーっと見ながら、こんどはそれとなく、スカートの裾に手をやってそうっと動かしたりするのだ。僕は蛙みいたな気持ちになった。板の上で皮を剥がれて、筋肉のところをピンセットでそうっとつままれている。それで目玉がどう動くのかじーっとのぞかれている。百合子さんに観察されているのだ。対談しながらそっちのほうが面白くて、口では対談しながらそんなことをしているのだ。百合子さんはそういうワルサが好きなのだ。

2009年11月13日金曜日

事件の被害者個人③



おはようございます。昨日は学校卒業後4年間社員寮で過ごしたもの達の4年ぶりのOB会で、4人組の一人は心筋症で遠慮するということで、一人奥様にも出席を願った。それは会社の医務室の看護婦さんが、女子社員の多いところと集団見合い・今なら合コンした各10人の中から縁があって結婚したから、2度目の出席になった。余病がないのは、この奥さんは多少腰が痛いのがあるだけで、この70歳前後となると病気説明会ではあるが、屈託ない話が交わされました。

和田嘉子:故和田栄二(JT職員)氏夫人31歳
和田さんは妊娠中に地下鉄サリン事件でご主人を亡くされ、その後に明日香ちゃんを出産された。マスメディアでしばしば報道されている人だそうです。マスメディアが自分たちで作りたいようなイメージに報道されていた。とてもセンスが良い。生きていくことのセンス、何かを選び出すときのセンス、言葉をみつけてくれるセンス・・そういうものに優れているという風に感じた。裏表のない人だ。もちろん私は亡くなった和田栄一さんにお目にかかったことはないわけですが、この人が選ぶのであれば、おそらくまっとうなよい人だったろうなと思わせるところがある。彼女は3時間にわたる長いインタビューの間終始笑顔を失わなかった。どんな質問にもはきはき答えてくれた。ただ一番最後に、こらえきれずに涙を流しただけだった。「もう泣いていいですよね」という感じで。
駅まで明日香ちゃんを抱いて近くの駅まで送り迎えしてくれました。どこにでも見かける若い幸福そうな奥さんに見える。別れ際に何か言おうと思ったのだけれど、「元気で幸せに生きてください」としかいえなかった。
録音したテープはシャイなユーモアに満ちている。それだけに、録音したテープを聞き返していると、奥にある苦しみの深さがかえってひしひし感じられたそうです。

2009年11月12日木曜日

父のおおらかさ



おはようございます。私の場合は父が早くなくなったので、これという思い出はない。下記のような話を読むといいなあと思う。

あるとき私は文房具屋で何かを買った。家に帰ってから気にいらなくなった。返品しようと思ったが自分で行くのは具合悪く、これを妹に行かせた。私はなかなかにズルい子だったのである。妹は何心もなく帰ってきて、〈お金返すのはナンやから、ほかのん買うてください、いいはったから、ウチの好きな下敷きに替えてもろたしイ〉といい、私は腹を立てて、妹といさかいになった。

 父がどうしたのかと聞く。私がそのいきさつを父には話したくなかったのは、どこか、うしろめたい気があったからであろう。妹は無邪気にしゃべってしまう。父はゆっくり妹の話相手になってやり、私に向かって、おだやかにいった。〈モノ返す、ちゅうようなときには、自分で行かな、あかんナー〉母に叱られる時は逃げ場もなく追いつめられるので、かえって反発を誘い出されてるが、父がいうと、小学生の私はそれなりに反省してうなだれるのであった。
 
父のは小言というより、世間話のついでというような口振りがあって、子供のプライドはも傷つけられないでよかった。父は母とおんなじことを重ねてしかる、ということはしなかったようだ。しかし私は、父が黙っているのがかえって怖かった。何もいわないのは叱られたも同じことで、私はしょげてしまうのであった。そうして、いつのまにか、コセコセと小さいことはいわないが、大きいところで〈オ父チャンが見通してはる〉と思うようになった。
iメール:田辺聖子著より

2009年11月11日水曜日

母親の強さ


おはようございます。昨日は植木屋さんに、10年前もなった植木の剪定をお願いした。お陰でずいぶん明るくなりました。
剪定の間、車の場所をファミレスに移動し、朝の食事もそこだった。朝の利用は初めて、60歳代の夫婦、60歳代の男性が一人で
3卓でした。テーブルがひろびろで、朝の光のなかでよいものでした。

田辺聖子著:iメール:世界文化社より

独身の女の物書はお袋に雑用を任せて、奥さん代わりに使うのが一番便利なのだ。
つながりがとても強固だったお袋に結婚の相談して反対されると、してもよい気になった(再婚で3人の子連れの医師で、亡くなった奥さんは親しい友人であった。彼の魅力と3人の子供の寂しそうな愛らしさにほだされて)。夫をとったのは、夫との生活の方が「展望」がきくし、オモシロそうだったから。そのへんからお袋コンプレックスを脱しはじめていたのだろう。
母との密着は母子家庭で、終戦のトシの12月にが死んで以来、敗戦後の混乱時代を40になるやならずのお袋が3人の子供を育ててくれたからである。大変な時代だから、かえって生きのびられた。闇市で焼け残りの着物を売ろうが、ぼろおを着ていもの買い出しにいこうが、誰もわらうものはない。女親はきりつめて節倹できたし、男なら家の外に
息抜きもほしかったろし、酒・たばこなどのささやかな慰めも要ったろう。しかし女は子供たちと、壊れかかったラジオでも聞いて笑っていれば、たやすく充足できるのだ。男はそんなわけにはいかない。
そんな訳で無一物、女所帯で、やりくりしつつ、私たちはお袋に学校をだしてもらい、つぎつぎに勤めにでるようになった。人生は綱渡りの連続ではあるが、このときはよく渡りきったとつくづく思う。
私のお袋だけでなく、あの大戦で、夫を戦死させたり、空襲で失ったしたあの当時の妻たち、何十万何百万の女たちが、きっとそうやって生き延び、子供を一人前にしてきたのだろう。本当に母というものは強いものである。これがあべがあべこべに、妻が死に、夫たちが子供を育ててゆかねばならないとしたら、それだけの底力を発揮して綱渡りができたろうか、私は大いに疑わしいと思わざるを得ない。

2009年11月10日火曜日

事件の被害者個人②



おはようございます。昨日の通信の豊田利明さん、山形県出身、当時56歳営団地下鉄社員の続きです。凄い人です。

駅員の仕事を次のように認識しているそうです。
常々家内には、「ただいま、といって帰れないこともあるかもしれないから、心しておくように」と言い渡してあるんです。仕事中に何が起こるかしれません。サリンを撒くとかそういうこともあるけれど、たとえば喧嘩で刃物を持ち出す人がいるかもしれない。また精神的におかしい人が、駅に立っている助役を突然後ろから線路に突き落とさないとも限らない。また爆発物がみつかったようなときに、部下に「お前行って取ってこい」とは言えませんよね。私の性格からして、そんなことはちょっと言えない。やはり自分で行かざるをえない。そのようなことは監督者勤務を始めた若いころからずっと考えていました。
オウムの報道もまず見ません。見なくても分かります。これは具体的にどういうことですか?
オウムみたいな人間たちが出てこざるを得なかった社会風土というものを、私は既にしっていたんです。日々の勤務でお客様と接しているうちに、それくらい自然にわかります。それはモラルの問題です。駅に「いると、人間の負の面、マイナスの面が本当によく見えるんです。たとえば私たちが塵とりと箒を持って駅の掃除をしていると、今掃き終えたところにひょいとタバコやごみを捨てる人がいるんです。自分に与えられた責任を果たすことより、他人の悪いところをみて自己主張するひとが多すぎます。
でもお客様から与えられたプラスの面もあります。始発電車でいつも挨拶を交わす50歳くらいのお客様が、私がしばらく休んでいたので、出社して顔を合わすまで、死んだかもしれないと思われていたらしいのです。「命があったということは、まだ生きて何かをやなくちゃいけないことがあるということですからね。しっかり頑張ってくださいよ」と言われました。
「そうですね。私もすべてのものに感謝しないとなりませんね。お互い頑張りましょう」と答えたそうです。憎しみは何も生み出しませんから。

2009年11月9日月曜日

事件の個人の被害者



おはようございます。11月4日成蹊大学の宮脇俊文氏の村上春樹の小説はアジアと関連して日本人の喪失感の原点はノモハン事件や地下鉄サリン事件から理解の糸口があるという講演会でした。
村上春樹の「アンダーグランド」は新聞報道で分かっている名前700人から身元が判明したのは20%(報道の病院の患者リストなどから追う)。それでももう思い出したくもない人も相当にいる。それを懸命に追った膨大な記録です。

この記録の動機は新聞の投書欄にかいてある手紙は地下鉄サリン事件の為に職を失った夫を持つ、一人の女性によって書かれていたことに始まる。彼女の夫は会社に通勤している途中で運悪くサリン事件に遭遇した。倒れて病院に運び込まれ、数日後に退院できたものの、不幸にも後遺症が残り、思うように仕事をすることが出来なくなった。最初のうちはまだよかったけれど、事件後時間が経つと、上司や同僚がちくちくと嫌味をいうようになった。夫はそのような冷たい環境に耐えきれずに、ほとんど追い出されるような格好で仕事を辞めた。
 記憶している限りでは、それほど「切々とした」という文面ではなかった。またとっくに怒っているというのでもなかった。どちらかといえば物静かで、むしろ「愚痴っぽい」ほうに近かったかもしれない。「いったいどうしてこんなことになったのかしら・・・?」と戸惑っているような感じもあった。運命の急激な変転がまだうまくのみこめずに、首をひねっているような。
 この夫婦が負った心の傷は、いうまでもなく、深く厳しいものであったにちがいない。「ほんとうに気の毒に」と心から思った。でもそれがご本人にとって「気の毒に」というだけではとてもすまされない出来ごとであることもよくわかっていた。しかし何が出来るわけでもない。

豊田利明さん、山形県出身、当時56歳営団地下鉄社員で体力を使うので週2回ほどジョギングで体を鍛えている。4時間に渡って、つらい話を聞かせていただいたが、そのあいだ愚痴や弱音は一度も口にされなかった。「自分の心の弱い面を克服し、事件のことを少しでも早く忘れてしまいたい」と語る。続く

参考以前の辺見庸氏の対談:http://efemeral-spring.blogspot.com/2009/10/blog-post_09.html

2009年11月8日日曜日

鎌倉街道



おはようございます。昨日は青梅市の西、日出町に日の出陶房(中曽根首相とロンヤス会談をやった場所の近く)で作陶の手習いにいってきました。自己流では分かっていなかった極基本的なことを教わってきました。

西東京市にも横山道と呼ばれる東西に通じる道があります。これは鎌倉時代の武士で八王子に存在した武士集団の横山党※1のいる西南方向への道筋です。
これが鎌倉街道と呼ばれています。鎌倉街道という字を読むだけで、武士集団の通過した軍馬の蹄の音が聞こえてきそうです。そのほかの古道では市内だけの限定でいえば、東西道路では青梅道、久米川道、江戸道、立川道、関道、鈴木道、五日市道(伊奈道)、札野道があり、南北道路では清戸道、府中道、深大寺道、引又道、谷戸道、片山道(この先にも片山党という武士集団がいました)があります。板碑※2はその名残にようです。
これらの道を住宅地図や古道のガイドで調べていましたが、他の用事で疎かになっています。
鎌倉街道:当時の鎌倉街道とは、御家人たちが緊急のときに、いちはやく鎌倉へ駆けつけるための軍用道路だった。おもな鎌倉街道は「上道」「中道」「下道」の3本に分けられる。
「上道」は鶴岡八幡宮の若宮大路を起点として、群馬県の高崎から信濃、越後方面へと通じていたとされる。「中道」は鎌倉の巨福呂坂(こぶくろ)から大船、戸塚、渋谷、新宿を経て八王子から宇都宮、そして奥州へ。「下道」は金沢街道から現在の都内を通って、東京湾に沿うように下総国府へ向かい、さらに常陸国へと通じていた。これらの道路が整備されたのは鎌倉幕府成立後である。当時京都と鎌倉を結ぶ東海道も、主要な鎌倉街道だったようだ。しかし江戸時代に五街道が整備されると、鎌倉街道は主要幹線道路ではなくなり、古道化してしまった。
※1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%9A
※2:http://city.tachikawaonline.jp/view.php?area=17&id=305&mode=details