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2010年1月3日日曜日

江戸の優しさ


おはようございます。いま足利事件で菅谷さんが再審になりました。裁判の前段階について取り調べも密室でなく、証人や参考人の取り調べも「可視化」の検討が行われているようです。
裁判員制度もしっかり機能しているようで喜ばしいことだとおもいます。江戸時代の町奉行の優しさが載っていましたのご紹介します。
八百屋お七
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%99%BE%E5%B1%8B%E3%81%8A%E4%B8%83
この人物は幼い恋慕の挙げ句に放火未遂事件を起こし、それが後に浄瑠璃等芝居の題材となったことで有名である。
生年は1666年で生まれとする説があり、それが丙午の迷信を広げる事となった。下総国千葉郡萱田(現・千葉県八千代市)で生まれ、後に江戸の八百屋太郎兵衛の養女となった。
お七は天和2年12月28日(西暦1683年1月25日)の大火(天和の大火)で檀那寺(駒込の円乗寺、正仙寺とする説もある)に避難した際、そこの寺小姓生田庄之助(吉三もしくは吉三郎とも、または武士であり左兵衛とする説もあり)と恋仲となった。翌年、彼女は恋慕の余り、その寺小姓との再会を願って放火未遂を起した罪で捕らえられて鈴ヶ森刑場で火刑に処された。遺体は、お七の実母が哀れに思い、故郷の長妙寺に埋葬したといわれ、過去帳にも簡単な記載があるという。
その時彼女はまだ16歳(当時は数え年が使われており、現代で通常使われている満年齢だと14歳)になったばかりであったため町奉行・甲斐庄正親は哀れみ、何とか命を助けようとした。当時、15歳以下の者は罪一等を減じられて死刑にはならないと言う規定が存在したため、甲斐庄はこれを適用しようとしたのである。厳格な戸籍制度が完備されていない当時は、役所が行う町人に対する年齢の確認は本人の申告で十分であった。 甲斐庄は評定の場において「お七、お前の歳は十五であろう」と謎を掛けた。それに対し彼女は正直に16歳であると答えた。甲斐庄は彼女が自分の意図を理解出来てないのではと考え、「いや、十五にちがいなかろう」と重ねて問いただした。ところが彼女は再度正直に年齢を述べ、かつ証拠としてお宮参りの記録を提出することまでした。これではもはや甲斐庄は定法どおりの判決を下さざるを得なかった[1]。

2009年11月13日金曜日

事件の被害者個人③



おはようございます。昨日は学校卒業後4年間社員寮で過ごしたもの達の4年ぶりのOB会で、4人組の一人は心筋症で遠慮するということで、一人奥様にも出席を願った。それは会社の医務室の看護婦さんが、女子社員の多いところと集団見合い・今なら合コンした各10人の中から縁があって結婚したから、2度目の出席になった。余病がないのは、この奥さんは多少腰が痛いのがあるだけで、この70歳前後となると病気説明会ではあるが、屈託ない話が交わされました。

和田嘉子:故和田栄二(JT職員)氏夫人31歳
和田さんは妊娠中に地下鉄サリン事件でご主人を亡くされ、その後に明日香ちゃんを出産された。マスメディアでしばしば報道されている人だそうです。マスメディアが自分たちで作りたいようなイメージに報道されていた。とてもセンスが良い。生きていくことのセンス、何かを選び出すときのセンス、言葉をみつけてくれるセンス・・そういうものに優れているという風に感じた。裏表のない人だ。もちろん私は亡くなった和田栄一さんにお目にかかったことはないわけですが、この人が選ぶのであれば、おそらくまっとうなよい人だったろうなと思わせるところがある。彼女は3時間にわたる長いインタビューの間終始笑顔を失わなかった。どんな質問にもはきはき答えてくれた。ただ一番最後に、こらえきれずに涙を流しただけだった。「もう泣いていいですよね」という感じで。
駅まで明日香ちゃんを抱いて近くの駅まで送り迎えしてくれました。どこにでも見かける若い幸福そうな奥さんに見える。別れ際に何か言おうと思ったのだけれど、「元気で幸せに生きてください」としかいえなかった。
録音したテープはシャイなユーモアに満ちている。それだけに、録音したテープを聞き返していると、奥にある苦しみの深さがかえってひしひし感じられたそうです。