2010年2月14日日曜日

待ち合わせ場所


おはようございます。冬季オリンピックが始まりました。カナダにも先住民族が大勢いて、その存在の意味を発表する場ともなっていました。先住民族は自然とうまく調和して
暮らしていました。氷河期に渡った先住民族はカナダの大自然、オーロラ、雷、四季の移ろいの紅葉、白クマ、を敬っていました。その様子がうまく表現されていた開会式でした。
向田邦子との20年:久世光彦より
待ち合わせ場所
たった一度だけ待ち合わせしたことがある。向田さんから指定された銀座での場所が喫茶店でもなく、服部の時計店でもなく、デパートの屋上でもなく、4丁目の交差点に近い近藤書店という本屋の2階だ
った。どっちが先にきていて、どっちが遅れて入ってきても、なんとなく様にならない。店をでるとき、どっちが伝票を持って立つかだって、どうもうまくいかないような気がする。どっちだっていいじゃ
ないかと思われるだろうが、向田さんと私との間は、そんなつまらない、けれど微妙で危ういバランスの上に成り立っていたような気がする。何にしても気まずくなりたくないのである。その点本屋という
のは上手いと思った。

2010年2月13日土曜日

鮭いろいろ


おはようございます。故郷山形の日本海の鶴岡もお祝いのときの折に鮭が入っていて、その木目のようにきれいだったこと。それと母の実家山側の山形の家で食べた塩の塊の鮭これも美味しかった。
 青森の人も鮭好きなのですね。

大きなお世話:日本文芸家協会編:長部日出雄「鮭と縄文人」から
青森の人は三内丸山遺跡の発見で縄文時代に思いを馳せる。鮭は神から恵み与えれた大切な食糧、晩期には塩付けによる保存も始まったらしい。
●寺山修司は鮭の腹の下のほうの皮が白くなったところが美味しいと力説。
●苦労人で、貧乏生活の経験のある棟方志巧は陶芸家の河井寛次郎を家に迎えたときに、塩で凝り固まったような鮭、京都で暮らす河井は食べたことがなかっただろう。昔の青森の人間にとって、ほんのひとかけらでご飯が何杯も食べら
れるほどカライ塩鮭は大の好物。
ビエンナーレでグランプリを受賞した棟方がロックフェラー財団の招きで渡米したとき、空港に出迎えた人に、初対面でありながら「アメリカには、鮭がありますか?鮭がないと力がでないのです」
それを聞いた人は、「滑稽な感じを受けるどころか、私たちと同じでオープンで、フランクな性格の人で、親近感を抱きました」との感想だった。
●デリケートな太宰治は金持ちの生まれ:木目状に重なった身を一ひらずつはがしては、口にいれ一口毎に酒を飲む。友人の話をして、カチカチの鮭を茶漬けにして食べるのが一番うまいなんて、山家育ちなんだな」

2010年2月12日金曜日

記憶の扉


おはようございます。ふっと思い出すきっかけは、古い町並みや骨董市にいったとき、また押し入れの整理や、捨てられない手紙を整理しているときです。
向田さんの場合は、匂いをきっかけに思い出すようです。
向田邦子との20年:久世光彦から
アンチョコ:台本のネタの打ち合わせがあっても、ないときはない。そのようなときには歳時記や歌謡大全集だった。この2冊はいってみれば話の泉だった。もしかしたら、この2冊の中には人生のすべてがあるのではなかろうか。春夏
秋冬、たとえば3月なら<雛><桃><東風><啓蟄>という風に、俳句の季題とそれを用いた例句がのっている。
向田さんは流行歌をうたったことはあまりきいたことがないが、時代の出来事といっしょに実によく知っていた。一つの歌にはそれぞれいくつもの思いがあったのだろう。ほとんど聞こえるか聞こえないくらいぐらいの声で『雨に咲く花
や小畑実の『星影の小径』をいやに長いことハミングしていたのは、なにか訳があったのだろう。生きていることのいちばん大切な部分と、意外な関わり方をしていたのだ。
向田さんは匂いに敏感で、お祖母ちゃんに手をひかれて松茸を買いにいった夜道でラジオの東海林太郎の歌を聞いた話というのがあるが、まずミス・メモリー(向田さんの記憶力の良さの別称)が思い出すのはラジオの音である。その音
を反芻していると、住宅街の家々の黄色っぽい電気の光が見えてくる。お祖母さんのカサカサした掌の感触が蘇る。あれは確か松茸を買いにいったのだ。なぜそんなに夜遅くに松茸なんか必要だったのだろぷ。そうだ、お父さんの大切な
お客さんが突然見えたのだ。という思いだしの順番のようのである。

2010年2月11日木曜日

こんなときでもいい気持ち


おはようございます。メールを開いてみて、朗報でした。義叔父の難病の入所先がきまり一安心です。唯一の頼みの綱でしたので、喜びよりというよりも、叔母はまず安堵の気持のようです。これがだめなら車で雪道の2時間も先でした。ここなら10分で通えるし、よかったです。

生きる子との意味(ある少年のおいたち):高史明
極貧にあって母も幼い頃になくし、父親の手でないない尽くしのところで育ち、自分の気持ちを少しでも解放できるときはどんなときかとよんでいたら。
わたしは、毎日学用品を包みこんだふろしきを腰にしばりつけ、お古のズボンのしり(、、)に、風いっぱいにはらみこませて学校に駆け付けました。もし、学校に通うようになって楽しいことがあったとすればそんな時だったといえるでしょう。
おしり(、 、)にカギ裂きをつくっているのを忘れて、前の晩のうちに父に繕ってもらえなかったおきには、この風は、大きな破れ目からうすうすもれ出てしまって、ズボンはうまくふくらみません。でも「やっぱり気持ちがいいのです。
雨の日は、下駄を両手にもって、はだしで駆けるのです。一番いい気持ちになれるのは、そんなときでした。みんなが大きな傘をもてあましているとき、わたしだけは、身軽に「すいすい駆け抜けていけるのですから、雨に濡れことさえ
もとても楽しくなるのですから、不思議なものでした。

2010年2月10日水曜日

男女平等の効果


おはようございます。男女平等の会主催の講演会にいってきましたが、200人中10人の男性でした。しかし女性の視点は現実を直視し、介護や高齢化については男性も勉強し、知っておくことは大事なことと思った。
講演会:樋口恵子※「あしたの老いは大丈夫か」:高齢社会をよくする女性の会代表理事長、東京家政大学名誉教授:※http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E6%81%B5%E5%AD%90
練馬区の豊島園に在住。

介護保険制度ができて10年
日本の平均寿命は世界でも第一位、高齢化のスピードは記録保持者(現在韓国の出生率の激減、中国も一人っ子政策により、高齢化のスピードが速まっている)
よくいわれることですが、日本の65歳以上の総人口に占める割合は22.8%(北欧の場合は15%)、
●どの国も平均寿命はすこしづつ延びている。
●高齢化の国の存在に注目するよりも、アフリカでは平均寿命40歳台は局地的な戦争による難民やエイズ患者は人口の20%にも達していることに注目すべきである。
●出生率:フランス2.0%、米国2.0%。日本は1.29%(現在多少持ち直して1.39%)
韓国では1.19%
●韓国の女性の大学進学率90%、男子よりも少しながら上回っている。特別に難しい外交官試験の合格者では50中30人が女性。日本の衆議院で女性の割合が2ケタになった。
●日本は男子の給与100として女性は60。世界的にみても日本は、女性の勤務が難しい国である。女性の高学歴が就業環境の改善に連動しなかった。
●女性が妊娠して退職する割合は70~80%。男性がもっと子育てに参加したくとも、1日の勤務が10H超えているのは4人に1人の割合である。男性も本来は病気や失業もあるだろうに、また、中堅管理職にもあり、離婚にあうこともあり、その時点で親が高齢化しての介護のために退職しなければならない事例も増えている。会社で妊娠時の女性や、男性の親の介護のために、短時間の勤務体系があれば、退職なしで勤務できる。このように多様性( diversity)の雇用継続があるべき。家族が幸せになれる社会は高齢者を大事に、子育てが容易になるようにする、このことが男女平等から始まる。
●親の代の家を改築した。350万円の支出だった。マンションは管理費3万円や修繕積立金1万円で、戸建てより費用がかかるので戸建有利の考えでいたが、どうも高齢期に達してみると、累計するとそのような費用がかかり、平均寿命が人生50年の時代ならともかく、現在90年ともなると、高齢期になっての一時金は仕事をもっていないと大変な支出になる。
また木造は耐用年数30年で、平均寿命がはるかにこえているので、退職時に建築するようなことも考えておく必要があるということになります。
この平均寿命について自分で事実を直視しなければならない。また年金も男性が残る場合>女性が残る場合の差が、かなりあることも考慮しておく必要がある。
●人口の推移と平均寿命:江戸時代3000万人、明治維新3300~3500万人、敗戦時は6700万人(植民地もいれれば9000万人)が1億2千600万人。
昭和15年のころの平均寿命は男性46歳、女性49歳でお嫁さんが姑さん見取るのはせいぜい半年かそこらだった。戦争がなく平和で豊かなので平均寿命がながくなって当然。
高齢化社会という定義は高齢者の割合が7%をを越えて場合で1970年の万博の年だった。

2010年2月8日月曜日

程よい温度


おはようございます。今日は午後から雨で春雨の生温かい雨のようですね。
向田邦子との20年:久世光彦より

私は向田さんのドラマについて話すことがあると、必ずこの話をする。あるお天気のいい午前、貫太郎が大きな背中を見せながら縁側で爪を切っている。パチン、パチンと気持ちのいい音が聞こえる。新聞紙を敷いたその上に大きな足を
置いて切っているのだが、勢い余って貫太郎の足の爪は弧を描いて庭先や茶の間や、あちこちへ飛んでいる。お勝手の方から足音がして妻の里子が現れ、貫太郎の脇を通り抜けようとして「あ痛ッ」と小さな声をあげて立ち止まる。鶴の
ように片足を上げて、素足の足の裏に刺さったものを摘んで取る。畳に飛んでいた夫の爪である。そして誰言うともなく、ポツリと呟く。「男の人の爪は固いから・・・・」これは名台詞の一つかもしれない。素足の女の感覚である。生
活の隙間からひょいと拾い上げた台詞です。
里子は「爪を飛ばさないでくださいね」などいと無粋なことはいわず、そのままスタスタと行ってしまう。聞こえたのか、聞こえなかったのか、貫太郎も知らんで顔で爪を切り続ける。それだけのシーンである。そこがいい。向田さんの
好きだった人生のほどよい温度がここにはある。

ジャガイモは怖い


おはようございます。戦後の食糧難のときは、ご飯にジャガイモや、大根の葉や、サツマイモがはいっていました。皆お祭りどきに食事が賑やかになるのが楽しみでした。
じゃがいもの話:スペイン人で神父で植物学者であるジェロニム・コルダンや同じくスペイン人のペドロ・シェザ・デ・レオンが異口同音に絶賛しているような食材、あっという間にヨーロッパ人の胃袋を虜にしたかのように思われるだ
ろうが、実際は逆だった。
大体人々は初め気味悪がった。土にまみれた不細工な塊、こりゃ、悪魔の食いもんじゃないか。
たびたびヨーロッパ各地を襲った不作や飢饉の年にさえ、どんな厳しい気象条件にもまけず、どんな貧しい土壌にも根付き、多さんで栄養価の高いジャガイモは受け入れてもらえなかった。当時の絶対君主は食糧問題の解決につながると
みて、普及のために最後は暴力や脅しを用いて強制的手段に訴えた。1756年のジャガイモ戦争でルイ16世の治下のフランスでジャガイモの普及に尽くしたオーギュスト・ハンバルマンチェはプロシャの捕虜になったおかげでジャガイモ
の美味に気付かされた。しかしジャガイモンの普及は遅々としていて、市民権を得たのは18世紀も末のことである。
日本には1601年には今のジャカルタからオランダ船で長崎にもたらされた。ロシアに入ったのはこれよりも遅いのだ。17世紀末兄弟との政争にかったピョートル1世は職工に身をやつしてオランダやイギリスの先進国の技術を学びな
がら、ジャガイモの美味も体得して持ち帰った。しかし誰もが気味悪がって食べないし、作付もしない。大帝が目の前で食べてみせても、さらには食べないと打ち首といっても苦しみ悶えながら死ぬのは嫌と拒否していたが、実際食べて
みて美味しさが分かったのことだった。しかしそれでも翌朝には冷たいムクロになるとおののいた。
アダムとイブが楽園を追われた原因となったのは、リンゴではなく、ジャガイモだというのだ。花が咲いて実がなるのではなく、土中でクローン型の増殖をするのが、気味悪がられたのである。「悪魔の果実」を食した者には地獄が約束
されている、と。
もうひとつ農民に普及しなかったのは味が薄く、バターやソースをかけると高く付いたとういうこともあった。
武装蜂起した首謀者が不毛の大地へ流刑になった。ここでやんごとなき身分の首謀者も農耕にはげみ、ジャガイモを取り寄せ栽培した。それが農民にもやっと伝わった。それがジャガイモを栽培しそれを食したものには金貨を与えた。こ
れは絶大な効果があった。それが全土に伝わる始まりだった。