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2010年2月14日日曜日

待ち合わせ場所


おはようございます。冬季オリンピックが始まりました。カナダにも先住民族が大勢いて、その存在の意味を発表する場ともなっていました。先住民族は自然とうまく調和して
暮らしていました。氷河期に渡った先住民族はカナダの大自然、オーロラ、雷、四季の移ろいの紅葉、白クマ、を敬っていました。その様子がうまく表現されていた開会式でした。
向田邦子との20年:久世光彦より
待ち合わせ場所
たった一度だけ待ち合わせしたことがある。向田さんから指定された銀座での場所が喫茶店でもなく、服部の時計店でもなく、デパートの屋上でもなく、4丁目の交差点に近い近藤書店という本屋の2階だ
った。どっちが先にきていて、どっちが遅れて入ってきても、なんとなく様にならない。店をでるとき、どっちが伝票を持って立つかだって、どうもうまくいかないような気がする。どっちだっていいじゃ
ないかと思われるだろうが、向田さんと私との間は、そんなつまらない、けれど微妙で危ういバランスの上に成り立っていたような気がする。何にしても気まずくなりたくないのである。その点本屋という
のは上手いと思った。

2010年2月12日金曜日

記憶の扉


おはようございます。ふっと思い出すきっかけは、古い町並みや骨董市にいったとき、また押し入れの整理や、捨てられない手紙を整理しているときです。
向田さんの場合は、匂いをきっかけに思い出すようです。
向田邦子との20年:久世光彦から
アンチョコ:台本のネタの打ち合わせがあっても、ないときはない。そのようなときには歳時記や歌謡大全集だった。この2冊はいってみれば話の泉だった。もしかしたら、この2冊の中には人生のすべてがあるのではなかろうか。春夏
秋冬、たとえば3月なら<雛><桃><東風><啓蟄>という風に、俳句の季題とそれを用いた例句がのっている。
向田さんは流行歌をうたったことはあまりきいたことがないが、時代の出来事といっしょに実によく知っていた。一つの歌にはそれぞれいくつもの思いがあったのだろう。ほとんど聞こえるか聞こえないくらいぐらいの声で『雨に咲く花
や小畑実の『星影の小径』をいやに長いことハミングしていたのは、なにか訳があったのだろう。生きていることのいちばん大切な部分と、意外な関わり方をしていたのだ。
向田さんは匂いに敏感で、お祖母ちゃんに手をひかれて松茸を買いにいった夜道でラジオの東海林太郎の歌を聞いた話というのがあるが、まずミス・メモリー(向田さんの記憶力の良さの別称)が思い出すのはラジオの音である。その音
を反芻していると、住宅街の家々の黄色っぽい電気の光が見えてくる。お祖母さんのカサカサした掌の感触が蘇る。あれは確か松茸を買いにいったのだ。なぜそんなに夜遅くに松茸なんか必要だったのだろぷ。そうだ、お父さんの大切な
お客さんが突然見えたのだ。という思いだしの順番のようのである。

2010年2月8日月曜日

程よい温度


おはようございます。今日は午後から雨で春雨の生温かい雨のようですね。
向田邦子との20年:久世光彦より

私は向田さんのドラマについて話すことがあると、必ずこの話をする。あるお天気のいい午前、貫太郎が大きな背中を見せながら縁側で爪を切っている。パチン、パチンと気持ちのいい音が聞こえる。新聞紙を敷いたその上に大きな足を
置いて切っているのだが、勢い余って貫太郎の足の爪は弧を描いて庭先や茶の間や、あちこちへ飛んでいる。お勝手の方から足音がして妻の里子が現れ、貫太郎の脇を通り抜けようとして「あ痛ッ」と小さな声をあげて立ち止まる。鶴の
ように片足を上げて、素足の足の裏に刺さったものを摘んで取る。畳に飛んでいた夫の爪である。そして誰言うともなく、ポツリと呟く。「男の人の爪は固いから・・・・」これは名台詞の一つかもしれない。素足の女の感覚である。生
活の隙間からひょいと拾い上げた台詞です。
里子は「爪を飛ばさないでくださいね」などいと無粋なことはいわず、そのままスタスタと行ってしまう。聞こえたのか、聞こえなかったのか、貫太郎も知らんで顔で爪を切り続ける。それだけのシーンである。そこがいい。向田さんの
好きだった人生のほどよい温度がここにはある。

2010年2月6日土曜日

○につけても



おはようございます。新潟の様子では85cmもの大雪だそうで、田舎山形の叔母の家も心配です。除雪車がきて公道は通行できるようになるが、玄関の前に除雪の大きな塊が寄せられて、それの処理が又老人の手には、屋根の雪下しも合わせて大変な作業です。雪かきなどどうしているか心配です。
昔毎朝玄関から公道も含めて、雪踏みで道をつけてからの朝食でした。

向田邦子との20年:久世光彦
どんな上の句にも(それにつけても金の欲しさよ)という句が下につくという話がある。
たとえば《山ひだのゆるき流れを上りつつそれにつけても金の欲しさよ》とか、《月を待つ高嶺の雲は晴れにけり それにつけても金の欲しさよ》といった具合である。どんなに高楊枝をくわえていたくても 、
財布のほうが一人で寂しがるということがあるものである。私が長年勤めた会社を辞めて独立したといえば聞こえはいいが、不安なものである。よりかかる大樹が今日からはないのであり。半年先までの当
てはあっても、1年先となると目処などついているはずもなかった。それでも、いろんな人から励ましの言葉を添えて、絵や時計や置物やそれに花をたくさん貰った。どれも嬉しかったが、お金をくれた人
が一人だけあった。何尾の色気もない茶封筒に入っていた。中に手の切れるようなお札で、びっくりするくらいの金額が入っていた。封筒の表には〈おめでとう〉と面倒臭そうな字で書いてあった。
普通なら〈入学祝〉とか〈寿〉とか祝儀袋にかいてしまうものだが、留学の人へは〈好日〉とかパーティなら〈花束〉と書いてポケットへ忍ばせてやる。そんな向田さんでも不祝儀の場合は人並みに〈御霊
前〉〈御仏前〉と畏まって書いた。悲しみの日には、人と同じ顔をして粛然とうなだれるのが礼儀と心得ていたのである。

2010年2月4日木曜日

父の偏屈


おはようございます。昨日の朝の出がけに、庭のバケツに入っていたのが、凍っていました。相当に寒かったのですね。これを見て急に寒い思いをしました。

任那や百済や、秀吉の朝鮮出兵や朝鮮通信使など相当に古い歴史は聞いていましたが、近代の韓国や朝鮮との日本について状況についてはこの本を読むまではよく
分かっていなかったようです。被害を受けた側からの事実の発表がないと分からないものですね。

生きることの意味(ある少年のおいたち):高史明より

1900年以降の朝鮮との事情

時期   出来事      朝鮮人の日本国内人口  
1900年   日清戦争※          
1910年:日韓併合   790人         

1919年  3.1事件(朝鮮独立運動)
1931年満州事変
1932年       390,543人
1940年      1,000,000人
1945年敗戦    2,365,263人
※この戦争は日本と清国が朝鮮の支配をめぐって争った。
韓国における所有権のない土地を土地調査事業という名目でありながら、
朝鮮の農民は長年にわたって耕作してきた土地を取り上げられた。
朝鮮の農村においては土地とは部落の人々のものという考え方が強かったり、個人の所有がはっきりしている場合でも、その保障を慣習にたよることが多っかた。多くの土地が地主のものであっても実際に耕している農民のものでなかっ
たという事情がかなり一般的だった。所有権を申告すると、かえって土地を奪われるのではないかと疑い、申告しなかった。このために土地が容赦なく取り上げられた。こうしておびただしい流民が生まれた。この流民が日本に来たこと
になる。
▲労働力や兵隊の要員として強制的につれてこられた朝鮮人
▲うばわれた朝鮮語(朝鮮の学校で朝鮮語禁止)
▲削られとられた朝鮮の歴史や文化
▲創氏名改名は朝鮮風の名前を日本風に変えさえした。

父の偏屈こそがわたしたちを守ってくれました。母親のいない私たちを、いじけた子にすまいと思ったら、偏屈にならざるを得なかったのです。そして、それだけが、きっと父の気持ちを引き立ててくれる“つえ”だったのです。
父の偏屈とわが家のきまりは、
カミ一枚 トッテクルナ
ハシ1本 モラッテクルナ
クギ1本ヒロッテクルナ
これが、父がいつも口にしていた鉄則です。
父がしばしば口にしていた教えがあります。
人ヲナグル者ハ、背中ヲチジメテネムルガ、
人ニナグラレタ者ハ、手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。
「人間ハ、ドロボウシテ楽ヲスルヨリ、貧乏シテモ、手足ヲノバシテ暮ラスホウガ、長生キスルモノダ」

2010年2月3日水曜日

平凡な名前


おはようございます。雪道を滑らないように駅までいったら、ホームに電車がきていて慌てて乗り込んだ。何時もなら4分位の
余裕はある。今日は多少ゆっくりだったので時間がかかったのだと思った。しかし車内のアナンスで病人のために3分の遅れで申し訳ありませんとのことであった。
結局は前の電車に乗ったが為にいつもよりも早かった。通勤先の近くの女子中学校では入学試験で、案内の人が40人位もならんで待ち構え、ビップ扱いのようです。
父兄の待機所まで設定されていました。そういえば3日は節分でした。もう春なのですね。

向田邦子との20年:久世光彦より

向田さんは作中の人物の名前なんかどうだっていいと日頃言ってはいたが、嘘である。ただ一見どうでもいいような名前ばかりつけていたのは事実である。たとえば『寺内貫太郎一家』の石屋の使用人の名前は〈イワ〉に〈タメ〉に〈ウス〉、向かいの花屋は〈花くま〉であった。いずれ〈岩五郎〉とか〈為吉〉とか本名はあるのだろうが、最後まで誰も知らなかった。『阿修羅のごとく』の四姉妹は上から〈つな子〉〈まき子〉〈たき子〉〈さき子〉だった。そんな名前ばかりであった。なぜかというと、第一に経済的な理由からである。字を書く手間のことである。脚本には台詞の頭にいちいちそれを喋る人物の名前を書かなくてはならない。主な役だと一遍」の脚本のなかで50や百の台詞はざらだから。〈イワ〉と〈森繁〉を百回書く手間の差である。自作の「顎十郎取捕物帳」の顎などの字画が嫌なのである。そんな向田さんだから画数の多い役名をつけたことはない。
向田さんがある脚本の中でつけた名前「その子」を「忍」に直したことがあったが、ひどく怒られた。過剰にロマンチックな名前だとはじめからなんだか選ばれた劇的な女になってしまう。女はみんな普通なのだ。普通の生まれで普通の育ち、普通の名前で普通に人を好きになる。普通の顔に菩薩の笑みを浮かべ、普通の顔をして心に鬼を棲まわせる。だから女は可愛いし、だから女は嫌らしい。私は謝った。それからごく普通の名前が好きになった。

2010年1月23日土曜日

自信


おはようございます。子ども手当が支給される予定ですが、これは親がいる子に支給されるもので、親がそんな中、「児童手当は 親のいない子どもには支給されません。
  親への支給の形をとっているからです。いま全国で5000人いる 親のいない子どもたちに  子ども手当てを支給する仕組みづくりを検討しています。」という長妻大臣を補佐
している山井議員のメールマガジンがありました。
父(作家・新田次郎)への恋文:藤原咲子
私は自分を美人だとは思っていなかった。雑誌『ひまわり』の表紙を飾る少女に心奪われていたから、現実には打ちのめされ,自信がなかった。通学に利用していた中央線の電車から、整形美容の看板が黒い雲のしたに幾重にも揺れて目に飛び込んできた。電車の席はできるだけ隅にとり、目立たないようにじっとしていることが私を落ち着かせた。そんなころは正面から父と対峙するには耐えられない不安定な状態だった。
 そんなある日「咲子はとくに美人というわけではありませんよ、まぁ一般的ですね、絵のモデルですか、承知しました。咲子に伝えておきます」即座に私の意見も聞かずにでした。それは知り合いの美術大の卒業制作のためのモデルだった。
「いい思い出になるよ」、しかしどうしてもモデルなど出来る筈もない。愛想がない。眉間に皺をよせる癖。人前で必要以上にはにかむ癖があった。憂鬱は家族に向けられることがあって、兄のなんでもなような揶揄が引き金になり、泣きじゃくり始め、何日も尾を引いた。そんな時隣の老人が洗濯はさみで鼻が高くなることを教えてくれらので、早速試してみたが3分も我慢できない痛さだった。
父が「簡単に盛り上がるわけがないじゃないか、顔の美醜なんて問題ではないのだ。要は中身、チャキ(咲子の愛称)には可愛い目と口があって、なによりも可愛い・・・」
2カ月後画学生のモデルになった私の絵は畳2枚ほどの巨大なものに完成されていた。気になっていた天井を向いた丸い鼻はふくらんだピンクの両頬の中に、すっぽりと隠れ、尖った口元は口笛を吹いたように楽しそうだった。私が、前を歩いている私にささやき、後ろの私は、恥ずかしそうに風に膨らんだ紺色の制服のスカートを押さえている。何人もの私は全部私だった。夕暮れのキャンバスには、憂鬱も無愛想も眉間の皺もなかった。出来あがった構図の説明を興奮気味に話す私に、父は大きくうなずいた。

2010年1月21日木曜日

初々しかった時代


おはようございます。ここ2・3日は温かな天気ですね。弓の仲間が自宅から蝋梅をもってきた。ほとんど満開に近いくらい花開いている。
いい匂いするでしょうというが、小生鼻が悪く、春の匂いはオアズケでした。
雑誌記者・向田邦子:上野たま子
見た映画は『誰が為に鐘はなる』(監督サム・ウッド)だった。
邦子(向田さんが前勤めていた教育映画の会社から、転身し雄鶏社(おんどりしゃ)に入社、そこの雑誌『映画ストーリー』の創刊まもないころだった)
邦子さんは試写会を終え、喫茶店の席につくやいなや上野さんに問いかけた。
「イングリッド・バーグマン、あなたどう思う?」
「初々しいじゃない」
「ゲーリー・クーパーとキスするところ、いかが?」
「“鼻はどうなるの?いつもそれが不思議だったの”っていうところ?」
「鼻が邪魔にならないかって心配するのね、まるで14、15歳の小娘ね。バーグマンは当時28歳よ。ちょっと、われわれは騙されてはいけません」
そういった邦子さんの口調がワン・オクターブ上ずっていた。この人は既に接吻の経験があるのだろうか。一瞬私の頭のなかをそんな想いが横切った。邦子さんは、ゲーリー・クーパーがお好きなのだと、
私は気がついた。あの愁いを湛えた細い眼と、“オチョボ口”のクーパーが・・・。
今井正監督の名作『また逢う日まで』の、ガラス戸越しの接吻場面が観客に強い衝撃を与えたように、当時、キスはまだ“秘められるべきもの”であった。そのころ多くの日本人は、戦中からの封建的な倫
理観を捨てきれず、特に性の問題では一歩踏み出したところを逡巡している人と、何の抵抗もなくやってのける人と極端に分かれていた。

2010年1月17日日曜日

向田邦子さんのこと



おはようございます。向田邦子さんの作品は周知されていますが、作家個人の人柄についてもより知りたいと思っていましたが、下記の本はそれがよく分かりました。
雑誌記者・向田邦子:上野たま子
入社の日に総務部長が「こちらは、向田邦子さんです。『映画ストーリー』に入られます」と紹介された。邦子さんは深々と頭をさげ丁寧に頭を下げ丁寧に礼をした。耳の下で切り揃えた漆黒の髪が頭を上下するとき、ハラリと揺れて女
らしかった。
高木編集長がいたずらっぽくユーモラスに邦子さんに
「こんな忙しい会社によくきたね」
邦子さんは一瞬戸惑ったが、すかさず答えた。
「歩くより走る方が好きですから」
「じゃ走っこしようか」
「小学校のとき短距離の選手でした」
邦子さんは走るポーズをとって見せた。さきほど挨拶のときみせたしとやかさとは打って変わった活発さに周囲の編集部員たちの間には、一瞬しらけた時が支配した。慶応大学ラグビー部出身の編集部長は煙草に火をつけながら磊落に大
声で笑った。その高木さんの笑いがなかったら、周囲はしんと静まりかえったかもしれない。入社の日いきなり編集長に対して、これほど意表をついた対応をする邦子さんを周囲は茫然と見つめたといっていい。邦子さんはその反応を素
早く感じ取って、高木さんの鷹揚な笑い声にあわせるかのように、甲高い声でさも嬉しそうに笑うのだった。高木さんはもう一度笑い、周囲もどっと笑った