2010年2月7日日曜日

近縁


おはようございます。案外他人だと思っていても、次の話を聞くと近縁だという可能性があるのかもしてません。昔家庭教師をやっていたときの先の生徒が一人っ子でした。
その子がハムスターを籠にいて、新聞紙をちぎっては底にしいていましたし、ハムスターの運動はグルグル回る輪でした。今はペットショップであまり見かけませんね。

イヴの7人の娘たち:ブライアン・サイクス著:大野晶子訳
まだ幼いころだが、こども向け百科事典で世界中に散らばっているペットのゴールデンハムスターはたった一匹のメスの子孫であるという記述を思い出した。嘘に決まっていると思いつつ、」だが本当だったら?
おどろくべきことに、ハムスターは1年に最高で4回から5回子どもを生むことができる。その割合がでいけば1930年からすくなくとも250に及ぶ世代が誕生したことになる。
1930年に動物学の調査隊がシリア北西部のアレッポ(現在ハラブ)近郊の丘に「でかけ、みたこともない金色がかった茶色い毛並みの小さげなげっ歯動物を4匹捕獲したという。1匹はメスで3匹はオスだった。彼らはそれをエルサルムのヘブライ大学に持ち帰った。メスはすぐに妊娠し、こどもを生んだ。やがてその子どもたちは世界中の研究所の送られるようになり、それまで研究に使われていたラットやマウスの代わりとして人
気を呼ぶようになった。スタッフがもはや必要がなくなった研究動物を家に持ち帰り、殺すくらいならとペットとして飼いはじめることがときおりある。時間とともに、ハムスターは家から家へと広がってゆき、人気が高まると商業ブリ
ーダーがカタログにハムスターを加えるようになり、ハムスター愛好家が増えていった。それが世界中にひろがった。
今日世界中で3百万匹以上が飼われている。事実世界中から集めて調べてみると、一匹のメスから連綿とDNAがつながっていたのです。

2010年2月6日土曜日

○につけても



おはようございます。新潟の様子では85cmもの大雪だそうで、田舎山形の叔母の家も心配です。除雪車がきて公道は通行できるようになるが、玄関の前に除雪の大きな塊が寄せられて、それの処理が又老人の手には、屋根の雪下しも合わせて大変な作業です。雪かきなどどうしているか心配です。
昔毎朝玄関から公道も含めて、雪踏みで道をつけてからの朝食でした。

向田邦子との20年:久世光彦
どんな上の句にも(それにつけても金の欲しさよ)という句が下につくという話がある。
たとえば《山ひだのゆるき流れを上りつつそれにつけても金の欲しさよ》とか、《月を待つ高嶺の雲は晴れにけり それにつけても金の欲しさよ》といった具合である。どんなに高楊枝をくわえていたくても 、
財布のほうが一人で寂しがるということがあるものである。私が長年勤めた会社を辞めて独立したといえば聞こえはいいが、不安なものである。よりかかる大樹が今日からはないのであり。半年先までの当
てはあっても、1年先となると目処などついているはずもなかった。それでも、いろんな人から励ましの言葉を添えて、絵や時計や置物やそれに花をたくさん貰った。どれも嬉しかったが、お金をくれた人
が一人だけあった。何尾の色気もない茶封筒に入っていた。中に手の切れるようなお札で、びっくりするくらいの金額が入っていた。封筒の表には〈おめでとう〉と面倒臭そうな字で書いてあった。
普通なら〈入学祝〉とか〈寿〉とか祝儀袋にかいてしまうものだが、留学の人へは〈好日〉とかパーティなら〈花束〉と書いてポケットへ忍ばせてやる。そんな向田さんでも不祝儀の場合は人並みに〈御霊
前〉〈御仏前〉と畏まって書いた。悲しみの日には、人と同じ顔をして粛然とうなだれるのが礼儀と心得ていたのである。

2010年2月5日金曜日

善意の怖さ



おはようございます。私には経験がないのですが、地位の高い方にとっては、有難迷惑より一段上の善意の怖さというのがあることがわかりました。

社長の顔が見たい:曾野綾子より
ローマ教皇ヨハネパウロ2世が生前故郷のポーランドへか帰られた。両親と兄弟の墓参りのためであった。父母の墓の前まで来た教皇がもはや車から降りることができなかった。車n周囲にびっしり人がいた。墓がどこにあるのか、地名も書留られず、地図も手元になかった。しかし、そこには地元の人々がびっしりと墓を取り囲むようにして立っていた。市長か村長、村の教会の神父たち、村の顔役、近くにある女子修道院のシスターたち。皆善意に溢れた人ばかりだ。教皇がこの田舎町とゆかりのあることを光栄に思い、教皇を人目見たくて、盛装してやって来た人だろう。
しかし教皇が本当に久しぶりに、父母の墓をじっと見つめた時、墓の後ろには子どもたちの一団がいて、歌を歌った。もちろん慰霊の歌だろう。しかし教皇は無言の輝くような沈黙の中にしみ透る親子の会話が奪われた。なぜ歌なんか歌ったのか。なぜ教皇を、風と野の草だけが立ち会う野辺の語らいの中において上げ、彼らはその場を去らなかったのか。
教皇には自分の時間がなくても仕方がない。「子どもたちが両親のために歌を歌ってくれた優しさをお喜びになったでしょうよ。あなたはそう感じられない?」と言った人もいたが、私には感じられない。死、親子の思いは、個人のものに還してあげたかった。悪意は拒否できるが、善意は拒否する理由がないからだ。だから曽野さんはは悪意のよりも人よりも善意の人が怖いのだそうです。

2010年2月4日木曜日

父の偏屈


おはようございます。昨日の朝の出がけに、庭のバケツに入っていたのが、凍っていました。相当に寒かったのですね。これを見て急に寒い思いをしました。

任那や百済や、秀吉の朝鮮出兵や朝鮮通信使など相当に古い歴史は聞いていましたが、近代の韓国や朝鮮との日本について状況についてはこの本を読むまではよく
分かっていなかったようです。被害を受けた側からの事実の発表がないと分からないものですね。

生きることの意味(ある少年のおいたち):高史明より

1900年以降の朝鮮との事情

時期   出来事      朝鮮人の日本国内人口  
1900年   日清戦争※          
1910年:日韓併合   790人         

1919年  3.1事件(朝鮮独立運動)
1931年満州事変
1932年       390,543人
1940年      1,000,000人
1945年敗戦    2,365,263人
※この戦争は日本と清国が朝鮮の支配をめぐって争った。
韓国における所有権のない土地を土地調査事業という名目でありながら、
朝鮮の農民は長年にわたって耕作してきた土地を取り上げられた。
朝鮮の農村においては土地とは部落の人々のものという考え方が強かったり、個人の所有がはっきりしている場合でも、その保障を慣習にたよることが多っかた。多くの土地が地主のものであっても実際に耕している農民のものでなかっ
たという事情がかなり一般的だった。所有権を申告すると、かえって土地を奪われるのではないかと疑い、申告しなかった。このために土地が容赦なく取り上げられた。こうしておびただしい流民が生まれた。この流民が日本に来たこと
になる。
▲労働力や兵隊の要員として強制的につれてこられた朝鮮人
▲うばわれた朝鮮語(朝鮮の学校で朝鮮語禁止)
▲削られとられた朝鮮の歴史や文化
▲創氏名改名は朝鮮風の名前を日本風に変えさえした。

父の偏屈こそがわたしたちを守ってくれました。母親のいない私たちを、いじけた子にすまいと思ったら、偏屈にならざるを得なかったのです。そして、それだけが、きっと父の気持ちを引き立ててくれる“つえ”だったのです。
父の偏屈とわが家のきまりは、
カミ一枚 トッテクルナ
ハシ1本 モラッテクルナ
クギ1本ヒロッテクルナ
これが、父がいつも口にしていた鉄則です。
父がしばしば口にしていた教えがあります。
人ヲナグル者ハ、背中ヲチジメテネムルガ、
人ニナグラレタ者ハ、手足ヲノバシテ眠ルコトガデキル。
「人間ハ、ドロボウシテ楽ヲスルヨリ、貧乏シテモ、手足ヲノバシテ暮ラスホウガ、長生キスルモノダ」

2010年2月3日水曜日

平凡な名前


おはようございます。雪道を滑らないように駅までいったら、ホームに電車がきていて慌てて乗り込んだ。何時もなら4分位の
余裕はある。今日は多少ゆっくりだったので時間がかかったのだと思った。しかし車内のアナンスで病人のために3分の遅れで申し訳ありませんとのことであった。
結局は前の電車に乗ったが為にいつもよりも早かった。通勤先の近くの女子中学校では入学試験で、案内の人が40人位もならんで待ち構え、ビップ扱いのようです。
父兄の待機所まで設定されていました。そういえば3日は節分でした。もう春なのですね。

向田邦子との20年:久世光彦より

向田さんは作中の人物の名前なんかどうだっていいと日頃言ってはいたが、嘘である。ただ一見どうでもいいような名前ばかりつけていたのは事実である。たとえば『寺内貫太郎一家』の石屋の使用人の名前は〈イワ〉に〈タメ〉に〈ウス〉、向かいの花屋は〈花くま〉であった。いずれ〈岩五郎〉とか〈為吉〉とか本名はあるのだろうが、最後まで誰も知らなかった。『阿修羅のごとく』の四姉妹は上から〈つな子〉〈まき子〉〈たき子〉〈さき子〉だった。そんな名前ばかりであった。なぜかというと、第一に経済的な理由からである。字を書く手間のことである。脚本には台詞の頭にいちいちそれを喋る人物の名前を書かなくてはならない。主な役だと一遍」の脚本のなかで50や百の台詞はざらだから。〈イワ〉と〈森繁〉を百回書く手間の差である。自作の「顎十郎取捕物帳」の顎などの字画が嫌なのである。そんな向田さんだから画数の多い役名をつけたことはない。
向田さんがある脚本の中でつけた名前「その子」を「忍」に直したことがあったが、ひどく怒られた。過剰にロマンチックな名前だとはじめからなんだか選ばれた劇的な女になってしまう。女はみんな普通なのだ。普通の生まれで普通の育ち、普通の名前で普通に人を好きになる。普通の顔に菩薩の笑みを浮かべ、普通の顔をして心に鬼を棲まわせる。だから女は可愛いし、だから女は嫌らしい。私は謝った。それからごく普通の名前が好きになった。

2010年2月2日火曜日

五里霧中


おはようございます。直ぐにも春と思いきや、気温は相当に下がるようで、昨晩は雪になってきました。春になるには、その前に必ず雪の洗礼がどうしても必要のようでした。
生きることの意味(ある少年のおいたち):高史明
山口県下関市七輪町(朝鮮部落)に近い小学校の入学式ででした。親がついていない、着ていた洋服は兄のお古で、カバンもなく、履いていたのは古い下駄でした。真新しいのは名札だけの私と同様、一人ぼっちの子がいました。その子
も又、同じような貧しい身なりをしていました。頬に引っ掻き傷のある、見るからに意地の悪そうな顔をしていましたが、一人ぼっちの私にはその子だけが友達のように思われました。ところが一番はじめにけんか(、、、)をしてしまいます。
下駄箱のところで彼が他人のズックを盗む現場を見てしまった。にらみあいが始まった、いきなり手にしたズックを私の顔に投げてきたのです。
もう取っ組み合いのケンカになりました。同じようにきたない身なりをしていたので、暗い領域(母がいないし、すさんだ、極貧の家庭)が鋭く感じられました。わたしだって何時その子のように盗みを働
く人間になるか分からなかったのです。ドタバタの末教室に入っていた同級生や先生までがでてきて引き離されて、仲裁が入り、サワギはおさまった。がその盗みのことは父からのつけ口を嫌った教えが生きていたので、言わなかった。
わたしたちのけん(、、、)かはその子の盗みがきっかけでしたが、わたしの前途に待ち構えていた未知の、なぞのいっぱ詰まった世界でした。はじめて人間としての道を歩みはじめたといえるのでした。

2010年2月1日月曜日

稚気と大胆さと


おはようございます。もう梅の花は満開でした。その樹は花の白さの塊のために、見た目でで空中に浮いているようにみえました。自転車に乗っていても、首筋に
空気が流れ込んでも気になりません。
ワールドカップ予選を巡る64の話:大住良之
トミスラヴ・イヴコビッチ編
1960年ユーゴスラビア(現クロアチア)ザグレブ出身。1979年のワールドユースで来日し、独特の存在感から強烈な印象を残し、日本女性ファンを魅了し、驚くなかれ、当時から20年以上経過しているのに、世紀がかわっても、
いまだにプレゼントをもってはるばるヨーロッパまで会いにくるファンが幾人もいるのだそうです。
イヴコビッチは1989年のUEFAカップで<ナポリ>と当たったときのこと。相手のPKになった。蹴るのは神の手と言われた天才マラドーナ。このときチームメイトは賭を始めた。ユーゴから来たGKがマラドーナを止められるか
どうか。賭率は圧倒的にマラドーナの勝ちに賭けていた。イヴコヴィッチPKに対して絶対的な自信を持つキーパーだった。ペナルティエリアに近づいてきたマエアドーナに「おい、俺が止められなかったら、100ドルくれよ。俺が止
めたら、逆に100ドルやるよ」相手は少し考え込んでから、この奇妙なかけに「OK」と返してきた。飛ぶ鳥を落とす勢いの当時のマラドーナが手心を加えるはずがない。八百長の勧誘というよりも心理ゲームに引きずりこんだ。
イヴコビッチは「PKを止めるには相手に考えさせることだ。右か左か真ん中か。そして最後まで動かない」彼は自らに暗示を賭けた。「今日、俺は調子がいい」精神を集中させ、ボールが動き出すギリギリまで見切った。マラドーナの
右の軸足が着地し、左足が振りおろされた。」「左っ!」体がついていった。止めた。GKの勝利、マラドーナには負けて、チームメイトには勝った。
スーパースター相手にギャンブルを提案する。かようにイヴコビッチは大胆で稚気のある大男だった。