2009年1月14日水曜日

チャプリンのステッキ


ホトンドの街路樹は葉がおちていますが、楡けやきは都心だから温かいためか、今年は暖冬なのか小さな若い葉をチラホラと付け出してていました。

「週刊朝日」の名編長だった扇谷正造が“喜劇王”チャールズ・チャプリンの独創性を次のように評したことがある。

チャプリンの笑いは喜劇映画に革命をもたらしたと言われるが、道具立ての山高帽、誇張したメーキャップや付け髭にしても、だぶだぶのズボンにしても、それにあのドダ靴だって、従来の喜劇でお馴染みの代物に過ぎなかった。だがチャプリンが違っていたところが、ひとつだけある。それはステッキを取り入れたことだ。あの一本のステッキこそ、山高帽やつけ髭にと統一感を与え、いままで見たこともないコメディアンが出現したと観客に印象づけたというのである。この平和主義のチャプリンの全く逆の例を引いて、アメリカの世論の錯覚のさせ方が次の通りだそうです。

 

NHKデュレクター・高木徹の「ドキュメント戦争広告代理店」はユーゴスラビア崩壊後のボスニア紛争の際、アメリカがコマーシャリズムの発想と手法を駆使して、サルビア側を一方的に悪玉に仕立てていった経緯を、徹底した取材によって浮かびあがらせた。それによると、セルビアのナチス的なイメージを決定付けた「民族浄化」という言葉は、アメリカのPR会社の社員が案出したキャッチコピーで、セルビアが「強制収容所」を建設したという誤報とともに、全世界に流布し、アメリカの反セルビア戦略を後押ししたのだという。

ちなみに、1991年の湾岸戦争における石油まみれの海鳥の写真や、イラク兵にわが子を虐殺されたと訴えるクエート人の母親の映像も、ずいぶんあとになってから、アメリカ側が意図的に演出もしくは捏造し、世界に流したものだと明らかにされている。イラク戦争でも、同様の手口が使われてきた可能性は極めてたかいという。事実証拠なきまま戦争が開始されました。

検索円エンジンのグーグルは知らない人はないくらいであるが、アスキー・ドットPC編集部編「グーグル最新検索術」と、内外の新聞やニュースをネットで読みたいときに役立つのは「moriken・org」で朝日、毎日、読売、日経、産経、東京、の各紙、共同通信、NHK、ニューヨークタイムズ、ワアシントンポスト、ニューズウイーク、CNN、BBC、ロイターのニュースを手軽によむことができるそうです。

調べる技術・書く技術:野村進著、講談社現代新書から

2009年1月13日火曜日

川越の喫茶店



10年前に比べると、町並みも整備されて人気のでている蔵づくりの町埼玉県の川越市まで足を延ばし「喜多院」ところに行ってきたら、まだ新年の参拝客が大勢いました。

その帰りに喫茶店に立ち寄ろうと辺りを探しあるいたのですが、大通りのアンティーク風な店はどこも混雑して、満席なので丁重断って

いるところでした。しかたなく駅の真じかのところで、かろうじて空席がありそうでしたのですが、その手前の隣の店のガラス窓に「赤飯まんじゅう」

と赤い紙に書いてあり、お茶をどうぞは小さく書いて張り出されています。ここも喫茶店だった訳で、お菓子やさんではないのでした。一人のお客さんもいない店で入店にちょっと躊躇したのですが、ゆっくり出来そうなので敢てこちらを選びました。ところがサービス満点の店でした。応対も丁重でコーヒーを頼みましたところ、もう一杯お代りができますという。又カップも選べますとの説明でした。カップのリストには毎月の人気ベスト10まで書いてあります。私もどれにしようか迷ったのですが、一番シンプルなデンマーク王室でつかっているのを選びました。しばらくし運んで来たのはポットに被いがしてありました。これは2杯目飲むまでに冷めないようにするためという。又赤飯まんじゅうを追加注文しようとしたら、小豆入りのは品切れで、芋餡でよければということなので、川越はサツマイモを餡にした饅頭が有名なので、それでもよしということで頼みました。

それからひっきり無なしにお客さんが、喫茶のためでなく、店先に赤飯まんじゅうを買いにくるのでした。食べてみるとこれは美味しいものでした。程がよく、薄味でした。米粒が一つ一つ

光っています。なかなかに美味しいのに、来店がすくないのは観光客に目立つようにではなく、平日に地元相手に精を出しているからなのでしょうか。きめの細かいサービスにであい、これを独占できたのですが、一面気の毒でもありました。

2009年1月12日月曜日

日本の音楽教育の側面


ネットでみつけたのですが、演題が「日本における音楽の在り方を、学校で習わない音楽から考える」ということでこれは面白そうだということで行ってきました。

なかにはやはり、分かりにくいところもあったので省くよりも※や?をつけたところがありますのでご容赦ください。

徳丸吉彦略歴:音楽学と美学は東京大学で、日本音楽と西洋音楽の実技はある程度個人的に学びました。国立音楽大学・お茶の水女子大学・放送大学での勤務ののち、現職。放送大学客員教授・お茶の水女子大学名誉教授。

放送大学東京多摩学習センター[西武線の一ツ橋駅:一ツ橋大学の国際センター]

開口一番に話されたことはこうだった。経済学者に、音楽について聞いてみると、教育面でいうと、歴史的にも一番成功しているのが、音楽界である。(但し西洋化の面で)世界中で活躍して指揮者やコンクールやブラスバンドをみても分かる」と。しかし何故日本の音楽教育に自国の音楽を教えなかったのかは明治維新で西洋崇拝でこれにに追いつけ主義からだった。今日は日本の音楽も教えることになったが、音楽の先生が、日本の音楽をしらないので、伝統的な音楽を教えるには、ボランティアで協力願っているそうです。

日本はいつから音にかかわっているかという研究を音楽考古学という。下記のようなまことに簡単な楽器でも結構多様な音が出せる。海外でも類似の石楽器があり、日本のも、けして孤立していないことが分かる。

【古代】

縄文時代:石笛(玄界灘の島で発見、形状ビール瓶の先が空いている。口笛みたいな・鳥が鳴くような音色で、管の突端の開閉と息の強弱で調節)、土笛(秋田県で発見、尺八のような音色)

弥生時代:陶けん(陶器でオカリナみたい)、銅鐸

中国や韓国から雅楽がわたってきている。この雅楽であるが、現在宮内庁だけにしかないようにおもわれているが、全国に30もある。宮内庁では晩餐会の演奏もあるので、雅楽と西洋音楽の両方やらなければならないそうです。外国人のために雅楽のままでで洋楽の演奏は可能であり、やれば外国人も喜ぶ筈なのに、それを勧めても、宮内庁は許さないそうです。

●学校での起立・礼が和音階であるかのように定着している?。

●民族音楽的教育をやっている沖縄の話である。加出納基地付近の学校では宮良長包(1883から1939)この人は滝連太郎と山田耕作の中間位の年代の人で1924年に作曲した郷土風な《えんどうの花の咲くころは》、サンシンでも演奏できて郷土的でありながら洋風にこなしている。沖縄での音楽教師の採用条件ではサンシンがひけることが条件になっているが、音楽教育をうけた人は10%、それ以外の普通学科を先専攻した人は50%がひけるという逆転状態がある。

●音楽の教科書にのっている音楽家は、日本でも名前がそれほど知られていない人でも一覧表にのっているのに、日本人でのっている人はたったの2人で、滝廉太郎と山田耕作だけで、教科書検定で出版社に文句をいったら、但し書きとして(西洋音楽の場合)といれられ論理的は筋が通っているのでそのまま出版された。

それぞれの国の民族音楽を教科書で教えていない国は少ない筈。

●お寺の梵鐘を楽器としてみないのは困る。西洋において教会の鐘を鳴らすのが難しいということでテープを流すこともある。鐘は単一であっても余韻とか、初心者ではその余韻を残すようなつき方は本来難しい。

●外国から異なった音楽に触れて、自国の音楽が変化を起こすことを「文化触変」といい、それが自分なりに十分にこなして新たな変化を起こすことを内発的変化という。

このような例に《春庭花》(しゅんでいか)は日本人による雅楽である。

宮城道雄の《春の海》1929年は箏と尺八の日本式の2つが同じ調べを引くのではなく、別べつにのパートっだたので国内では最初不評をかったが、同じ曲を来したフランスのヴァイオリン奏者シュメールが尺八パートをヴァイオリンが演奏したらこれは好評で、そのことがあってから、だんだんと理解された。

初代米川敏子(1913-2005)の《御羽車》貴人がのる御輿を意味した曲は、13本弦の箏と17本の箏(別の例であるが、ピアノ88弦に近い80弦まで増やした人もいるがこで演奏されたのは一回きりだった。)これは極めて独創的。ほとんど内発的であった。三味線も低い音を出すために大きくしようとしたが、2人で弦を抑える人、弾く人での分担が必要で限界があった。

●音色の組織化と音高の組織化(よく理解できなかった※)

最初の三味線の楽譜が印刷されたのは『糸竹初心集』1664年、一般に楽器の音を口で唱える唱歌(しょうが)。三味線の場合は口三味線がいえれば、キチンと曲がひけた。

歌舞伎に関係する長唄の序とその他の口三味線と音色の関係※

●日本例ではシラビックはそうらん節(手拍子がうてる)、メリスマは江差追分(手拍子が打てない)。宗教活動と音楽は不可分で、東大寺修二会(お水取り)。音楽が視覚や臭覚とも関係している例。練行衆。差懸(さしかけ)もうこの辺りから分からない。※この放送大学で、初心者に5線譜まで分かるように教えようという教科が07年にあったようです。

●モーツアルトについては、演奏されていない曲はないので、日本人はよく知っている。もう100年もかけているのだから。

大阪音楽大学の音楽博物館:http://www.daion.ac.jp/museum/enkaku/index.html

浜松市楽器博物館:http://www.obra-p.co.jp/eggs/0307/4_1_0307.html

武蔵野音楽大学:http://www.enjoytokyo.jp/OD003Detail.html?SPOT_ID=l_00022976

東洋音楽学会:http://wwwsoc.nii.ac.jp/tog/nishi/regular_2007_2008.html

徳丸吉彦の書籍:「音楽とはなにか。「事典 世界の音楽の本」。いずれも岩波書店。

2009年1月11日日曜日

アメリカの鏡・日本③

ありあけの月をこぼるゝちどりかな  飯田 蛇笏


下記の説明は「アメリカの鏡・日本」という本の著者であるヘレン・ミアーズがアメリアの行動した道と、どうすればよかったかを述べたもので、最初は日本の言訳の論拠にするには好材料だちと思うぐらいだし、このような理想的な議論は現実的ではないと思ったがそういう軟弱なことではないと思ったし、そうすべきだったと思うが力の力学の世界がこれを許さなかったといえるようです。

国際問題は「道義的」かどうかではなく「合法」かどうかなのだ。欧米列強は韓国問題では日本を無罪とし、満洲事変は有罪とした。しかし侵略行為で有罪としたのではない。国際連盟も、アメリカも、日本が満州を侵略したことを非難はしていないのだ。日本は国際条約を破り、条約当事国の満州における権利を侵したから有罪なのだ。それだけではなく、中国も日本と並んで有罪とされた。しかも中国にいわせれば、日本と中国を非難している欧米列強も同じぐらい罪が重いのだ。国際関係も正しく議論しようと思ったら、道義と国際法はまったく関係ない事実を直視すべきだ。日本を有罪とするアメリカの世論は、満洲事変を明白な侵略行為と考えている。しかし事実はまったく違うのである。アジアからみればこれこそ日本と欧米列強が合法性を装い合う伝統的パワー・ポリティクスなのだ。

中国からみれば、欧米列強も日本も、極東の権益を守り、あるいは拡大しようという本音を覆い隠しているからのだ。

   日露戦争までは、ロシアがイギリスと並ぶ勢力だった。1904年から5年にかけて、日本はロシアと戦ってその勢力拡大を食い止めてくれた(日露戦争のとき起債に積極的に応じた英米両国にはこういう背景があった投資なのだったのでしょうか)。そして、日本は活動の場を朝鮮半島と満州に限定していたから、イギリスをはじめとする西洋列強は、中国本土でほしいままに振舞うことが出来た。しかし第一次世界大戦で力の均衡が崩れた。敗戦国ドイツがもっていた山東省を獲得しようとする日本の試みはアメリカに妨げられたが、日本は大戦を利用して、強引に中国での権益を求めていった。それ以上に極東の「安定」を揺さぶったのは、共産主義革命という形をとって再び出現したロシアである。中国に権益をもち、アジアとその周辺地域に植民地を持つ大国にとって、共産主義ロシアは帝国ロシアよりずっと危険な対抗勢力だった。帝政時代の「不平等条約」を認めず、西洋列強が特権を享受しているシステムの基盤そのものを直撃してきたのだ。加えてソ連の革命的スローガンが中国の革命的大衆に火をつけた

2009年1月10日土曜日

酒は勉強より飲むもの?



発酵は大気中にある野生酵母を使って自然におこる。ある種類の鳥や動物は定期的に腐敗した果物を食べ、酔いを楽しんだようにみえる。(鳥が酔っぱらったら飛べないし、動物は酩酊したら捕まってしまうだろうに。それほど強くないのでほろ酔い程度なのでしょうか?猿が飲むという、木から落ちる理由が分かった?)それを横取りした人間は同じ体験をしてワインの作り方を学んだ。穀物を原料とする酒の歴史は違う。野生の草という形をとった穀物の実そのままでは、余りにも堅く、乾燥しており、とげだらけで食べられない。しかし、洪水で水浸しになり、その後日光で干されると、カリットして食べやすくなることがわかった。穀物は水に浸して溶けやすくされねばならなかった。これはビールとウイスキー(ケルト人の語から)を作るために発芽させねばならないのと同じだ。昔アフリカでのシュメール人が飲んだビールは牛乳のような濁った姿で、ウイスキー蒸留所の発酵槽の中味と似ている。ヘビーなビールを飲んで受難節を生き延びるドイツの修道士は「液体のパンと呼び、「ブレッド(パン)」「ブリュー(醸造された)」と同じ語源をもっている。酵母を加えることをいう言葉「ピッチング」は平ったいピザとかピタの表現に関係があるそうです。

「蒸留」の語源は暑い太陽が、引潮の海岸に残す塩を思い起こす。フェニキア人は海水を蒸留することから塩を得た。アルコールと蒸留(ディストレーション)はアラブ語に

語源があるそうです。ムーア人がジブラルタル海峡を渡って、ルネッサンスの初期に蒸留酒とその技術を運んだのだろう。錬金術と中世医学で使用され、蒸留酒をあらわす言葉としてAqua vitageまたは「命の水」ができたのだろうということです。

ウオッカ:ライ麦か小麦、ジャガイモから。ブランデー:果物ならなんでも、ブドウが典型的、オランダでは蒸発させ・焼いたワインの意味。ジン:穀物を蒸留し柑橘類の皮で風味。ラム:サトウキビ、糖蜜。

ウイスキー・エンサイクロペディア:マイケル・ジャクソン著・土屋他訳[かの有名な人とは別人でウイスキーの大家]、小学館より

a.wikipediaの説明、古代オリエント地域では、ビールを日常消費用、ワインを高級品として飲み分けていた。中世ヨーロッパの時代にブドウ栽培とワイン醸造を主導したのは僧院であった。イエス・キリストがワインを指して自分の血と称したことから、ワインはキリスト教の聖餐式において重要な道具となった。ただしこの時代、ワインは儀礼として飲むものとされ、むやみに飲んで酩酊することは罪とされていた。ルネサンスの時代以降、娯楽としての飲酒が発展する。17世紀後半、醸造や保存の技術、また瓶の製造技術が向上し、ワインの生産と流通が飛躍的に拡大した。

酒の起源:http://akira-chin.com/search2.php?res_id=447も簡単で面

2009年1月9日金曜日

眼と眼の出会い


健康診断の結果を聞きにいったが。何でもないと思ってはいましたが、医院の扉を開ける前に急に心配になってきて緊張しました。
 友人が健康診断が終わって3月後に具合悪く、胃がんと分かったという話を思い出したからでした。結局は何でもありませんでしたが、水はよく飲んで老廃物は流しなさいといわれました。

黒人兵テリーと眼と眼を合わせたるベトナム兵はテリーを撃たなかった。

鶴見和子:テリーはアメリカ兵で相手はベトコンです。そうして眼と眼を合わせて、ツーット行っちゃったのよ。それはわかったのよ。あ、お前さんは黒人だ、アメリカでいじめられて差別を受けている黒人だな、自分はいまアメリカと戦争している。だけどこの黒人はアメリカにいじめられている人だといって、撃たないで行っちゃったの。そこではテリ-はもう至近距離にいたから、彼が撃てば自分は殺されるところだったと。それを殺さないで行っちゃったということはどういうことかと考えて、これはもう殺し事なんかできないからといって、脱走兵として来たの。テリー本人から聞いたのよ。この話を。言葉は通じないのよ、ベトナム語なんかわからない、向こうも英語はわからなから、一言も交わさないでお互いに了解した。これはすごい感動的な話だった。目と目をみたの。

大石芳野:大岡昇平さんもそういう体験があったことを書いておられますね

鶴見   :フィリピンの。

大石   :そう。戦争という殺すか殺されるかのなかにおいてもそういうことがあって・・・。

鶴見   :其れから通常のところでは、水俣病患者の、もう亡くなったけれども川本輝夫さん、グラッシーーナローズというカナダ・インディアンの居留地に、水俣病のようなことが現われているって、行ったのよ。そうして酋長の夫人ジョゼフィンの家に行った。あの人英語喋ったわけじゃないのよ。ソレデカナダ・インディアンの酋長の夫人が日本語をしゃべるわけはないでしょう。ところが、私がその後にその酋長の夫人と英語で話をしたときに、ここにあんたが座りなさいっていうの。それでテルオはここに座って、こういう話をしたというんのだけど、それから私が水俣に行って、輝夫さんに「あなた、英語でしゃべったの?」「ううん、英語なんて」って。通訳がいた訳でもないのよ。「それなのに、あなたがこういうことを言ったって、まるですっかりあなたの言うことをが分かったみたいにジョゼフィンは言いましたよ」といったら、ポカンとしているの。手真似か何かで話したのでしょうけれどね。

      目と目が合わせれば心が通いあうということは、言葉を通さないでできる。

大石    そういうことあると思います。

鶴見    ところが言葉が分かっても心が通じないことがあるの。

大石    ええ、ありますね。

鶴見    言葉が分かったからお互いに通じ合うんじゃなくて、言葉が分からなくても

      目と目が合わせて通じあうことがある。それをあなたの写真は示している。あなたがレンズから自分の目で相手の目をぎゅっと見るとわかる。そういうことなんじゃない?

大石芳野・鶴見和子「魂との出会い」女流写真家と社会学者の対話:藤原書店より

鶴見さん:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E8%A6%8B%E5%92%8C%E5%AD%90

大石さん:http://www.mbs.jp/portraits/portraits/2004/2004_3/y.oishi.html

2009年1月8日木曜日

アメリカの鏡②・日本



何時も思っていたのは第二次世界大戦になぜ無謀にも参戦したのかの謎解きの材料の一つになる、アメリカ側の公平な見方のように思えたからです。本からそのまま引用しています。

戦争を通じて、徐徐に明らかになってきたことは、私たち(米国)が戦っている目的について全体的合意がないことであった。この戦争は至る所におそろしい破壊をもたらした。憲章を制定し、国際関係を根本から組み替えるという当初の言葉は戦争が進むにつれてわすれられ「戦いに勝つ」という単純で安直なドクトリンに置き換えられた。この矮小化された目的は、日本の戦争機関を壊滅させたことで達成されはしたが、所詮は短期的な目的である。失った人命と財産を償うためには、この短期的目的を世界の非武装化、人類全体の幸福を含む幅広い長期計画の中に位置つける必要がある。しかし、そのための計画つくりは容易なことではない。しかし、そのための計画づくりは容易なことではない。戦争に必要なものすべてもっている国が平和を創造するのは戦争に勝つことよりむずかしい。私たち(米国)はこの戦争から得たものは、避けようとした結果だけだったことが分かってきた。枢軸国は本性から侵略的だと聞かされていた。彼らを捉えて罰しさえすれば、世界は平和になるはずだった。しかし彼らが壊滅したというのに、本当の平和はどこにもない。内戦と革命戦争がアジア全域と太平洋の島々で吹き荒れ、世界のいたるところで第二次世界大戦前夜と同じような不安と爆発の前兆が感じられる。私たちがパールハーバーの報復からどんな満足感を味わおうが、報復の繰り返しという歴史の挑戦を受けるのだ。報復の繰り返しはもうたくさんだ。報復はけして平和に至るものではない。ところがアメリカは平和のための計画を創出するのではなく、最高の科学者と技術者に20億ドルを注ぎこんで、恐ろしい兵器を作りだした。「恐怖からの解放」というスローガンを戦いの旗印にしてきた国が、誰も逃れられない死の恐怖を世界に持ち込んだのだ。

戦争における私たち(米国)の役割と平和への提言をはじめから考え直す必要があるだろう。それには日本は第一等の資料である。日本と私たちの関係を客観的に見直すことは、私たちがアメリカの外交政策を再検討する鏡となるだろう。

次のHPはこの著作とは別ですが、比較するととても興味深いものがあります。

日本占領研究者の訴えはイラク戦争は歴史を無視する戦争であるという検証の記録です。http://japan.indymedia.org/newswire/display/29/index.php

※2はポーリー報告の概略内容;この「アメリカの鏡・日本」に書かれている部分からいうと、ポツダム宣言やすべての米国文書は断固として日本を「罰し・拘束する」といっていた。懲罰によって「野蛮な人間どもの戦争好きの性根を叩き直し、金輪際戦争できないようにする。そのために生きていくのがやっとの物だけを与え、あとはいっさい剥ぎとってしまおうというのだ。つまり、極めて広い範囲にわたって徹底的な締め付けと「改革」が進められるというのだった。改革には、日本を非武装化し、日本の資産と海外領土を没収し、エドイン・ポーリー賠償委員長がいう「輸出物資の量を最低限必需品の輸入が辛うじて賄える水準」にまで削減するという報告のようです。

ミアーズの『アメリカの鏡・日本』