2008年12月3日水曜日

コクーン



駅からの帰り道、ある家の2階のベランダにもう小錦風のサンタさん(風船でふくまらせた)がやってきていました。この家は2年おき位に模様替えです。模様替えの度に大きくなって色彩も洗練されてきています。通りすがりの叔母さんが「あのサンタさんの空気はどうやって入れるんですか?」「人の口から吹き込むのではなく、エアポンプですよ」と若いお父さんが応えていました。

最近MIXIでも話題にでますし、NHKでもみたことがありましたが、マイミクさん・あけみさんの情報によって日本テレビに出演が分かったので、なにもしてあげられない難病を看護している叔母にメールで知らせました。

昨日の日本テレビで紹介された「誰も知らない泣ける歌」の中、主婦の歌い手・コクーンの歌の元は:【動脈瘤が脳にできたことがことでの突然の激痛を手術し、手術前までは普通の子供と同じことが出来ていた。手術後は親がいうことは全てわかっていたが、しかし悔しいことにはそれを伝えることが出来ない。それが一緒に入浴した母親が何気なくいった「自分の名前の一字がかけるといいね」。それに応えたのは震えるような手先で一文字だけかいた。それにはもう7年間も経過していた。それから一字一字増やしての会話が始まった。】を書いた亡き娘さんの手記を読んだことだった。

2008年12月2日火曜日

落下について


街路樹の公孫樹の葉もだいぶ落ちてきて、歩道は黄色い道になっています。この葉の落下をみて感じたことではありませんが、ガリレオの時代の科学についての考え方がどんな具合だったのか興味がありました。ガリレオについてのHPなどを見ていると、下記のような興味ある質問がありました。

ガリレオのピサの斜塔の自由落下の実験についてですが、例えば塔の上から鉄球と木星を同時に落としても同時に地面につきますか?
引力は質量の大きいものの方が強いと思うのですが、関係ないのでしょうか?

知恵コインベストアンサーに選ばれた回答

mulnutritionさん

たしかに、引力は質量が大きい物が強いのは本当です。しかし、ガリレオの実験の場合は、地球の質量が大きすぎるため、鉄球と木の玉での質量の差がほぼ無いに等しいから、同時に落としても同じ速度で落下したという結果が得られました。(※実際は大きな重い砲丸はガリレオが空気抵抗として理解していた力の影響を受けることがより少ないため、指一本の太さ分より早く落下したので、ピサ大学の哲学部は大いに安堵した)
質問である通り、鉄球と木星を同時に落としたら、木星の方が早く落下するかもしれませんね。ただし、実際は地球よりも木星の方が質量がでかいので、鉄球と地球が木星に落下することになるかもしれませんけどね。

※ガリレオが落下実験をしても16世紀の哲学者(物理学者ではなく)の多くは実験による立証になれていなかったので、ガリレオの風変わりな行動よりもアリストテレスの学問の方をはるかに好み、ガリレオはピサでは評判のよくない人物となってしまった。

※は下記資料から引用しました。

ガリレオの娘:著デーヴァ・ソベル、訳・田中勝彦

2008年12月1日月曜日

記憶発掘



昨日は高校時代の同級会(同年代)だった。田舎の荘内館という同郷向けの寄宿舎で同じく住んでいたK君からの誘いもあって出掛けました。隣席に座ったK君はこんなことを言い出した。彼の奥さんがいうには貴君は我が家で貴重な存在だという。一度新婚当時様子をみがてら泊めてもらったことがあった。その貴重な存在というのは、起床した時に、布団をキチンと畳んで積み上げてあったという。それを今にしても記憶しているのは、寄宿舎時代には布団はほとんど万年床と比較してのことだった。1960年から初めて以来の顔合わせだったので、出席者16人の内、同組の4人は顔で分かったが、それ以外は先方からO君と言われても分からず、恐る恐るたずねて、隣の席に座らせてもらった。我が家の祖母の女学校時代のやはり同級の孫同士のOK君だった。おしなべて太った人は顔が随分変化しているから面相が分かりずらい。太っていない人は面影が残っている。お互いに話し込んでいるのは、先の布団の話みたいな記憶の鍵があるようだった。2時間はあっという間に終わってしまった。これから撮ってきた写真と名簿と原点である高校時代のアルバムと照合して記憶発掘作業に入ります。

2008年11月30日日曜日

男の料理教室


落葉があるものの、一方シクラメンとかクリスマス用のポインセチアなども店先に並んでいます。

駅からの帰り路には花屋さんの陳列が眼にとまり、「あれ!」また新種がでているということで、名札で確かめているが、頭に

入ってもすぐ忘れてしまう。

シニア瓦版というわずか3000部の新聞を新年に発行することで初版の原稿もできました。月刊にしようという提案がでたが、最初は景気よくそういうが、多分毎月発行できると思うが、威勢が最初からよいと長続きしないからということで、慎重を期して次号は何時か明示することにした。

そんな編集会議のとき、今後のいろんな話題がでたが、次号のテーマは「食」という問題になったとき、公民館主催の「男の料理教室」に参加していますという人が2名いました。

(小生も一度は、参加したら、鯵を3枚におろす、鮎の塩焼きと最初から高度だった。これは何年も続けている人たちだった。もうひとつは義理で参加を頼まれて、ツナ缶詰を混ぜ合わせた炊き込みご飯でしたが、毎月は大変ということで隔月になったそうです)

その一人に女性から質問があった。男性が一人になった場合でも、簡単に作れる料理ですか、それとも本格的なものですかという質問がどちらですか?

ちょっと考えてから、最初は簡便にできるものだった。しかしだんだん凝るようなものになってきた。材料の選別が大事ということで、朝市にいってみると、賞味期限の短いものが

あったり、スーパーによって売る姿勢がことなることもわかった。また中国産野菜はやすいが、日本産のものは価格が数倍かかるのがやはり悩みの種だった。

自分でも公民館以外でも挑戦してみようとしたら、どこの男の料理教室は満員で、やっと1年後の講座に参加できて、これは東京会館というところではホテルのコックさんが2人の生徒毎につきっきりで教えるものだった。(暇そうな感じで心配ですが、午前中や昼までは時間的余裕があるのでしょうか)まず包丁やまな板、布巾の消毒は材料が変わる度毎に交換するということで、ホテルの衛生体制の厳しさを知ったそうです。このホテルの本格的な部分と簡便な部分をミックスしながら調理しているそうです。

又の料理は実際やってみないと分からない。そこで次の質問は料理教室は楽しいですか?これにも即答はない。しばらく考えて、これを始めて良いことは、家内からよこす小遣いの額がずいぶん増えたということであったが、しぶしぶ楽しいことを認めた。すると奥さんを愛しているからこそ料理をしてあげようという深層心理があるからではないですかとその女性に念を押された。又一人になった場合にそなえての料理勉学ではないことは、別の男性も同調した。またその別の男性はやれるが、何かと多忙なので、常時料理をするようになりがちなのでやらないことにしているという。

毎日ともなると市販のものを利用して手早くつくるのが毎日の実態ですよとこれには主婦達は異口同音だった。

2008年11月29日土曜日

老人下宿



年賀状の印刷はソフトやインクや失敗の費用総額を考えると外注にしようかなと思い比較していたら、

https://www.printpac.co.jp/nenga2009/  12月5日までの限定特別割り引きで100部では3270円で、今のところ通常4800円位ですが、これが一番割り安です。

時代が変わって下宿といえば、学生用であったのが、老人向けに行われています。

28日の8ch8:00からのフジテレビで「とくだね!」という番組で老人下宿で月7万円[住居費と食費こみ]ということが報道され、最後のところだけみたので、状況はよく分からないのでメールで問い合わせしているところですが、何か危うさを感じます。

そこでネットで調べてみますと、北海道のある下宿の場合は倒産してしまった。

問題になったのは杜撰な金銭管理だった。「通帳と印鑑を事務所で預かっていて、閉鎖して戻ってきた通帳をみて驚いた。

経費がどれだけかかったのか一切知らせてくれない」

又「絆」というやはり倒産した老人下宿では、82歳の女性は半年入居で、2800万円もだまし取られたという記事がある。

それは「10年分の家賃と介護費用を預けてください。一生面倒をみますから」社長にいわれ2800万円を預託のだという。

(つい甘言にのってしまうのは、誰かに預ければ気持ちがゆっくりするという潜在的な気持ちがあるからかもしてませんが・・・)

この老人下宿は入居金などの一時金を抑え、月11万円だったという(通常介護もある場合は一時金なしで食事もいれて20万円はかかるようです)。公的に支える機関があまりにも少ないため、多くの老人は先行き不安なままうろつかされている。北海道はここ数年多いという。法律では一人を預かる施設でも県庁への届けが必要だという。

こうして被害にあった人は行く先がないという悲劇にあっている。

介護がない場合の単なる下宿はどの位の費用で可能か、悪用しないでのアイデイアをキチンと運営する場合よりは、むしろ共同のリビング談話室があるような共同老人住宅がよいのかもしれません。

詳細記事は

http://pub.ne.jp/newjei/  でブログ内検索で枠に老人下宿といれます。

2008年11月28日金曜日

奴隷解放の頃


最近黒人問題を追っている訳ではないのですが、そういうところに導かれます。不思議です。

「ハックルベリ・フィンの冒険」という愉快な本を書いたマーク・トウエイン(本名はサミュエル・ラグホーン・クレメンズ)、奴隷解放宣言は1863年ですが彼の生まれたのは1835年でした。1841年トウエインの父が陪審員の一人としてに家畜や道具なみに扱うことを正当化されていた奴隷5名の逃亡を助けた3名の白人の奴隷廃止論者にたいして、12年の実刑判決を下しているような時代であった。この本は彼がミシシッピ河畔のハンニバルという小さな町の学校体験によるものが書かれている。浮浪者同然のハックが、厳しくピューリタン的な未亡人の家に引き取られて、行儀、作法、を仕込まれた時、ハックはお祈りすれば願がかなえられると教えられて、魚釣り用の釣り針をたのんでみたが一向に効き目がなかったという場面を描いている。

彼の完全なる全集が出版されるようになったのは、1970年代の公民権運動やベトナム反戦運動等と期を一にしている。

 トウエインの黒人に対する感情は、父親とはむしろ正反対であったといってよいが、これには母親の影響がおおきかった。彼がまだ小さな頃、メリーランド州の東部海岸から連れてこられた奴隷少年がいた。この奴隷は、陽気で無邪気でやさしかったが、毎日騒々しく口笛を吹いたり、叫び声をあげたり、笑ったりしたので、トウエインは我慢できなくなって、母親にやめさせるように頼んだ。母親は眼に涙を浮かべ、唇をふるわせながら、こんなことをいっている。

「あの奴隷少年が騒々しく歌うときには、両親や兄弟から引き離されている悲しみを思い出さないようにしているからだよ。だけど、あの子が黙っていると、思い出しているのではないかと思って我慢できなくなるわ。あの子はもう二度と母親には会えないだろうし、歌って気がまぎれるのであれば、それをやめさせるのではなくて、むしろ、そのことに感謝しなくてはいけないよ」と諭したという。

アメリカ文学の源流「マーク・トウエイン」池上日出夫、新日本出版社

2008年11月27日木曜日

満州その2


また満州の続きになります。満州から帰ってきたとき、医療関係で残った叔父も満州のことにはほとんど触れませんでしたね。満州からの引き揚げのとき故郷鶴岡にも立ち寄ったことを覚えています。

日本が敗れて満州が崩壊したとき、弓張嶺(奉天と、鞍山の北東60km間の山奥の鉱山)は五味川純著「人間の条件」の舞台でもある。)には満州製鉄所出張所の社員や家族が三百人いた。そこへ19名のソ連兵が入ってくると、御他聞にもれず要求してきたのが女性の提供だった。日本人側は緊張した。相手をする女性を呼びよせるまで待ってほしいと掛け合う一方、もしソ連兵が手出しすることあれば19人を皆殺しの上、全員坑道で自爆することに取り決めた。鞍山市にも柳町という紅灯の巷があった。此の遊郭の女性を動かすことはソ連軍司令部から禁じられていた。しかしここに顔がきく藤田慎治に頼むことに衆議一決した。彼は子供のころから問題児でいわくつきの不良の放蕩児だったが、事業面ではやるべきことはビシッと締めくくってていた。折悪しく藤田は黄疸で42度の高熱に浮かされていたが学校で2年先輩でもあった代表の飯泉博にひたすら懇願された。「せめて2日待って下さい」「それが待てんのだ。この場を救うのはお前しかいない、お前が犠牲になって300人の命を救ってくれ」。藤田の侠気が黙視できなかった。

すぐにも出かけ、柳町の料理組合長の岡本宅で車を降りて交渉したが、血相を変えた「無茶も無茶。わしまで銃殺だ」それは土台無理な相談だった。藤田がふらつく足取りで悄然として岡本の家を出ると、物陰から藤田に好意を寄せている「しのぶ」という女が一部始終を聞いていた。「慎ちゃん、私が行く」  「よせ」――と出かかる声を飲む慎治に「何人いるの」「そりゃ・・・3人でも4人でも・・・」いい渋りながら用意してき持参金4万円を手に握らせた。

しのぶの屈辱の日々が始まった。開き直った女の意地でしのぶたちは押し通した。相手がソ連兵だけでは済まなかった。国民党軍と名乗る馬族くずれのお相手までさせられた。

かくして弓張嶺は一見平和裡にソ連軍の引き揚げることとなった。社員家族3百人と藤田一行も同じ列車で鞍山に帰ってきたのである。しかし惨めだったのは しのぶたちだった。ビタ一文の報酬もないばかりか、贈呈されたものは元の持主に返還を強いられた。度胸の良さと商売女の意地を見せた しのぶは無事郷里の大阪に帰国したが、ほどなく病死した。藤田は昭和58年に北九州市の病院において肺がんで息を引き取った。藤田は左腕に刺青をしていた。しのぶ命―――と彫ってあった、せめてもの彼の償いの証であった。

満州慟哭:友清高志(季刊誌:味の旅の編集発行):講談社