2009年10月21日水曜日

沈黙を破る勇気


おはようございます。イスラエルの若い世代はまだパレスチナについて偏見に陥っても、どうにかして取り戻す勇気が残っていた。これはまだ小さな種ですが平和をもたらすキザシになってほしい。
TBSで番組「沈黙を破る」http://cine.co.jp/chinmoku/
、イスラエル兵自身も「沈黙を破って」いよってイスラエル軍の内部の実情を告白している。※http://cine.co.jp/chinmoku/about.html

土井敏邦監督作品:イスラエルがパレスチナでやっている現状についての撮影された映画です。

パレスチナ人の玄関扉はイスラエル兵が道路側からカンヌキをかけているので、表にでられない。そうすると、ここから引っ越しするか屋根からの出入りになる。

占領地に赴いた経験をもつ元イスラエル将兵たちによって作られたNGO。創設者で代表のユダ・シャウールをはじめ、20代の青年たちが中心となっている。 占領地での、虐待、略奪、一般住民の殺戮等の加害行為を告白することにより、今まで語られることのなかった占領の実態にイスラエル社会が向き合うことを 願っている。2004年6月、イスラエル最大の都市テルアビブで、「沈黙を破る−−戦闘兵士がヘブロンを語る」と題した写真展を開催。占領地で撮影した写 真や60人の兵士たちの証言ビデオなどが展示され、国内で大きな反響を呼ぶ。以後、数百人の証言ビデオを収集し、メディアや講演、ウェブサイトを通じて国 内外に占領の実態を訴え続けている。

イスラエル兵が命令で強制されるのは、老人を拳銃の柄で殴り倒せ、子供は投げ飛ばすような扱いをせよ。通りにはところどこ検問所を設けて、パレスチナ人の移動を制限し、車はイスラエル人だけの通行が許される。
イスラエル兵は真夜中の1時にやってきて、ハマスがいるいないに関係なく、いるだろうと難癖をついて、手当たり次第、破壊し、家ごと壊す、襲われたパレスチナ人の家に拉致された若人の写真が飾ってあるが、その家は引っ越ししてきたばかりの家であった。女子高校の寮にある縫製施設さえも、出来上がった製品、ミシンを持ち去り、龍巻の襲来のごとくである。
しかしイスラエル兵もパレスチナ人には何も罪がないので、最初の内は罪悪感にさいなまれるが、繰り返すことで全く不感症になったと、日本にきたイスラエル兵も、一番悪いのはイスラエルであるが、このあり様をどうぞ理解してほしいという訴えであった。案内されてイスラエル兵と土井監督いわく、軍隊というものは本当に国を守るのか、沖縄の戦時中のヒメユリや、洞窟に民衆を押し込めた軍隊の例をひいて、守るとはどうしても思えないという。
しかもいくら好青年であっても2000年以降はこの罪悪感もとおりこし、恐怖もストレスもなくなっていると訴えている。またこのようなイスラエルがパレスチナの無実まで虐待する理不尽はハマスを利することになるとパレスチナ人の教師は訴えている。

公式サイト:http://www.breakingthesilence.org.il/index_e.asp

2009年10月20日火曜日

野坂暘子という人


おはようございます。この人は野坂さんの奥さんです。宝塚にいたが、あの人に口説かれ、だまされて結婚したみたいなものといっています。

毎日昭如さんは外で飲みひたり、ほとんど自宅に帰ってこない日々だったそうです。
ベッドの下、書棚の裏に酒の空瓶がゴロゴロ、犬か猫かのように地中に隠していることも分かったそうです。酔いが覚めて、また飲みたくなっていたのでしょうと。
あまりそのことを注意すると帰ってこないので、控え目にしなければならなかった。本来は野坂氏のこんなハチャメメチャな様子(若い頃はまっ裸になって往来で交通整理していた)の調子だから、野坂氏が廊下を歩くときに、両壁に右に左に歩く、脳梗塞になっていた。もちろん自分の言い訳でもあるといいながら普通脳梗塞も予想できた筈ですが、そのときそうは思わなかった。もうウンザリしていたこともあったそうです。それ以来自分のクヨクヨしない性格もあって、介護を始めた。誤嚥もあって食べるものは全部ミキサーにかけてトロミをつけろといわれたが、そうしても、食べる楽しみの大半がなくなるとおもいながら、奇跡的に誤嚥から解放されたそうです。物を書くにしても右半身麻痺になっても不自由であるが、一番介護で思ったのは自発的な行動を促すことということで、極力机に向かわせることにした。
(奥さんが筆記している。)
介護をして感じたことは、ヘルパーさんはたしかにプロですが、私は野坂昭如のプロですという。(様子で何を望んでいるかがわかるから、しかし頑張るんだと自分を叱咤激励しないと介護に向かうことができないのもシバシバだそうです。又兵隊ゴッコで号礼をかけて、起立の号礼で少しでも立つ力を促しているそうです。これに素直に答礼をしてくれるような遊びもしているそうです。)
野坂は若い人になにかにつけ、いずれ死ぬんだからと、この長い歴史的観点からいえば、20歳ちがっても一瞬の違いにしかならないと語っていた。野坂氏が生き続けたい訳は、この戦争で親をなくし、妹と2人残ったがこの妹もが飢え死させた。
戦争していいことは一つもなかったことを語り続けたいのだという。いずれ死ぬといっても、
生きていることを大事にしたいという。

あの時代は往来での全裸姿でもバンカラとよんで許容範囲が大きかったですね。野坂さんも障害をもったから、今の生を大事にすることになったのだと思います。

2009年10月19日月曜日

渋沢龍彦という人


おはようございます。石川遼選手が加わったゴルフはまことに面白い試合展開になる。本当に1ゲーム毎に上手になっていると解説者も、同じパーティの選手も
もう脱帽。高い挑戦目標があるから、あれだけ謙虚になれるのだろうともいっています。

mixiの馬頭観音さんが紹介していた「渋沢龍彦との日々」・渋沢龍子著から
なかなか見つからない渋沢龍彦・龍子夫妻の写真は結婚当初の頃のがこの書籍の内ページの目次の前にありました。

龍彦の飾り棚に並んでいるのは、バビロンの遺跡の石片、パトウヴァの石屋で見つけたトスカーナ石※2、パリで拾ったマロニエの実、会津若松で拾ったムクロジの実※1などでした。
彼が集めた貝殻や石、木の実などようなガラクタに至るどれも、彼のもとに魔法のように集まってくるのでした。実際、美しいものを見る彼の目は純粋で、きれいな貝殻と何カラットもあるダイアモンドを並べたとしても、迷わず貝殻のほうを取ってしまうような人でした。
鎌倉の海岸を散歩中に、まるい孔が無数にあいている石を拾ってことがあります。
拾いたてのころ、やわらかい石に貝が棲みついて出来た貫通孔を指出でおさえ、石笛と称してヒューヒュー音を出すことに熱中しておりました。そういう単純な楽器にたいして興味というか好奇心を抱き、いつか国立劇場に石笛の演奏を聴きに行ったことがありました。髭を生やした中年の男性が椅子に座って、両手で支えた石を吹き鳴らすだけのことで、ピーという音が高くなったり低くなったりしても、いつまでも延々とつづくので、わたしはひたすら睡魔と闘っていたのですが、彼はとても満足気に聞いておりました。


※1むくろじ(羽子板の羽根の先の黒い硬い種)
http://www.wombat.zaq.ne.jp/ashitaka/m-h/hagoita.html

http://www.wombat.zaq.ne.jp/ashitaka/m-h/hagoita2.html

※2トスカーナ
http://toscana.exblog.jp/2470181/

石笛:http://plaza.across.or.jp/~iwabue/

渋沢龍彦:http://blogs.dion.ne.jp/kanch0625/archives/7131711.html

2009年10月18日日曜日

見たい事をすぐ映画に


おはようございます。千葉の友人が15年住んだマンションに、見知らぬ不動産関係の人がきて、あなたのマンションは競売に出されているという。ローンも全部返済して10年は経過しているので身におぼえがない。
新種のダマシの商売でしょうか。登記所と市の消費者相談室に相談することを勧めました。

日本における韓流仕掛け人の一人が、李鳳宇さん※a1989年に映画配給会社のシネカノンを設立。当初は主に欧州映画だったが、韓国映画「シュリ」※b:韓国の秘密情報部員がサッカー南北交流試合を舞台にしたテロを防ごうという大型アクション映画のスケール感溢れる配給を決断した。このよう韓国映画は男性向けの硬派な作品が多かったが、次の映画は女性客を呼び込もうという狙いだった。
映画は水もの、ヒットするかどうかは蓋を開けてみるまで分からない。映画は一種のばくちのようなものだ。バクチが外れる確率を少なくするのがビジネス。100%勝つばくちはない。99%勝つばくちはあるけど。」と李さん。そして2004年5月「スキャンダル」は李氏朝鮮王朝時代の貴族社会を舞台にした愛憎劇の日本公開初日、映画館の周りには女性客が長蛇の列をつくった。周到な宣伝戦略を展開してきた李さんの“ばくち”が当たったのだ。

李さんは「見たいことをすぐやるのが、韓国映画の強さ」と語る。一方日本映画界については「日本のプロデューサーは『何をやったら当たるだろうか』と考える。それでは皆が同じことを考える訳だから、当たりっこない」と手厳しい。「本当はまず『何をつくりたいか』があって、それをどう当てようかと思うのが自然なのに、本末転倒。つくりたいものがないんじゃないか」。つくりたいものをつくるという熱意があってこそ、映画ビジネスは賭ける価値のある“ばくち”となるのだ。ガイアの夜明けの2004年7月13日放送(日経スペシャル『ガイアの夜明け闘う100人:テレビ東京報道局編』より

※a:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E9%B3%B3%E5%AE%87
※b:『シュリ』はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA、

2009年10月17日土曜日

こういう人は愛されるのですね。


おはようございます。石川遼選手や内村航平選手の限界に挑戦する姿についてイチローはどういうことをいうだろうか聞いてみたい。

藤原義江さんは”マナー抜群の紳士”といわれていた彼と食事することになった。
食事も終わりに近づき、デザートのケーキがでた。
「ウマそうでねエ」と藤原ダンナは言い、ケーキを口に運ぼうとした。その瞬間、ケーキが落ちて床に転がった。」ところがなんとしたことか、ダンナはテーブルの下へ手を伸ばし、ケーキを拾ったかと思うと、口へパクリと放り込んだのである。ぼくは自分の目を疑った。場所は自分の食堂であったが、それにしても、マナーのよさで名高いダンナがいったいこれはどういうことなのだ?
「きみー、そんなに驚くこたぁないよ。この床は汚くはないだろう。いつも、ちゃんと掃除がいき届いているしね。床に落ちたものを食うのは変だというのかね。ぼくはこのケースが食いたかったんだ。モッタイナイじゃないかなぁ。もっともぼくもね、外のレストランじゃこんなこたぁしないよ。それと、一緒に食ってる相手によらあね」と笑った。
”落っこちたケーキ事件”には後日談が2つ続く。一つは住み込みで掃除をしていた老夫婦が、「先生は、床に落ちたケーキを召し上がったそうですね、キレイに掃除がしてあるからといってくださって・・・・。先生は私たちにも、お優しい方です」。
と感激していた。
彼を知るたいていの人は、ダンナの魅力はその「優しさ」にあるということを認める。ところが」その人たちがまた一様に「ダンナはケチであった」ともいう。
ネクタイを貰って感激した宮沢さんが、後日こんなことを証言しているのが面白い。「藤原ダンナにあっちゃかなわないね。ぼくにこういうんだよ。『きみー、事務所のもんがね、宮沢先生に原稿料をお払いしなくちゃ、と言うんでね。」ぼくは言ってやったんだ。
バカなことをいっちゃいかん。彼と僕の仲で原稿料をはらうだなんて、そんなこをしちゃ失礼だよ、とね。」きみー、そう思うだろう』って。それで原稿料はパー。それはぼくだけじゃなかったんだがね。ところが不思議なことに、誰もダンナを恨んでいなかった。まあそれがかれの人徳というものなんだろうけど。誰もがダンナに惚れていたのだ。
(また時代の違いもあるのでしょうか。おおらかですね)

河童の手の内幕の内;妹尾河童著より

2009年10月16日金曜日

筆談ホステス


おはようございます。夕方部屋の空気を入れ替えるため、西日用のブラインドを上げ、窓をあけたら見事な夕焼けでした。もうブラインドも揚げても、夕焼けを楽しもう。

テレビ朝日で山本晋也監督のレポート:女性セブン9/20号にも掲載されているとのことであるが、
銀座の高級クラブM(すみれママ)に「筆談ホステス」を書いた斎藤里恵さんの紹介だった。クラブでもNO1だそうですが銀座でもNO1で25歳。

耳が聞こえないので、お客さんとの会話は筆談で、メモ用紙に綺麗な見事な字を書きながら会話をしている。
ナカナカのチャーミングである。隣に誰かがいる限り「憂い」が「愛」にカワリますというようなことから始まった。
Y:もともとホステスになったのは、どういういきさつですか?
S:親不孝からです。もともと目指していたのではなく、故郷の青森で、聾唖者の19歳で仕事がほとんどないし、出会ったママにやってみないかということからでした。
Y:何故耳が聞こえなくなったのですか?
S:1歳10ケ月に髄膜炎になったのです。聞こえた記憶はありません。子供のころは宇宙人とかいわれた。母は、これは自分の責任と痛烈にかんじて、周りの子供と同じように育てようとしました。喉に手を、ペンとかパンとの絵をみせながら声を出す訓練を続けさせられた。
しかし年頃にはそんな訓練に反発し、オシャレバカリを楽しむ不良少女になって、毎日母とは喧嘩で、今思うと優しさ故の厳しさだっとわかりますが、そのころはそう思えなかった。
Y:筆談いいですね。聞こえなくとも心は聞こえますね。聞くところではある相当年配の男性客が、「人生は難しいことばかり」  この斎藤さんは「難問がないのは無難、問題があるのは有難い人生」と答えたことをママさんから聞きました。これがあなたのお母さんからの手紙ですと手渡す。
S:母の手紙を読んでみると、『出版をみて、よりあなたのことが分かり、黙って見守るようにします。このまま頑張り過ぎて、倒れないようにしてください。私はホドホドですが、うるさい親でありたい。』と書かれていた。
  親という字は立木の上から子を見ている字なんですね。目はもう潤んでいました。

斎藤里恵:筆談ホステス:http://item.rakuten.co.jp/book/6189456/
評判:http://blog.livedoor.jp/officekumapooh/tag/%E6%96%8E%E8%97%A4%E9%87%8C%E6%81%B5

2009年10月15日木曜日

舞台美術をやることに


おはようございます。風邪で寝ていたことが多かったので、カーテンは閉めたままだったので、ハット思いながらも、出窓に置いてあった折鶴ランに水を1週間位忘れていたが、思いだしてカーテンを開けてみて健在だったので、タップリと水をやりました。

妹尾河童さんが、テノール藤原義江で、日本にオペラを根付かせた先駆者の大スターのところに居候したキッカケは、公演のポスターやパンフレットをデザインしていた縁でした。藤原歌劇団が大阪にやってきて、オペラ『オーボエ』の河童さんがデザインしたポスターをみての評価だった。それで東京に来ないかと誘われ、すでに知り合いになっていた子息の義昭氏もいたので自宅にお世話になることになった。
婦人の藤原あきさんも懐が深い人だった。そこで藤原家や歌劇団の手伝いはなにもせずに、グラフィックの仕事だけしていた。

3年目のある日、珍しく真剣な顔で「きみー、こんどの『トスカ』の舞台装置をデザインしてみないかね」と突然いった。この公演が2週間後に迫っている。舞台のデザインの経験は皆無で「藪から棒になにをいうんですか?」怒ったように答えた。ダンナは遮って「きみー、仕事が違うというけどオペラ好きなんだろう?そして絵が描けるじゃないか。チャンスは藪から棒に決まっているんだよ。列車が止まって”さあどうぞ”というものじゃない。人生なんて、ほんのちょっとしたキッカケで変わってしまうんだ。」
この若造にいきなり頼んできたその訳はいつも頼んでいる三林亮太郎さんという舞台美術家に何度も支払いしていなかったことからであった。やはりダンナのほうに非がある。公演中止かという瀬戸際であったのだ。そうと知っては描かざるを得なかった。自信が全くないが、居候の恩返しで承諾した。
3日3晩一睡もせずに舞台のデザインをした。そうして初日の舞台の幕をあげることができた。「やれば出来るじゃないか」とほめられても、もし失敗していたらということで冷や汗もので不機嫌だった。
ところが新聞やラジオでこの舞台装置が”人斬り銀二”と怖れられていた山根銀二にほめられた。「もう二度と舞台のデザインは描かないぞ」という決心していたのに、
貝谷バレエ団の「シンデレラ」の舞台美術も引き受けることになった。以後貧乏のどん底の日々は続く。


もうひとつのびっくりは藤原ダンナが、ポスターに”美術・妹尾河童”と印刷してしまったのだ。
(まだそのころは改名していないので、肇だった)「ヒドイじゃないですか。あだ名で呼ばれて
いるのを活字に印刷するなんて!」「君の名前が肇なんて誰もしらないよ。俺の名前は女の名前みたいな”ヨシエ”だぜ。カッパなら男とすぐにわかるだけでもいいよ”河童”が恥ずかしくない名前になるかどうかはこれからの君の生き方や仕事の仕方で決まるんだよ」といった。呆気にとられながらなるほどと思ったそうです。

河童の手の内幕の内;妹尾河童著より