2009年7月7日火曜日

お母さんの我慢


おはようございます。あまりにも可愛いお話で、クリスマスまで待とうかなと思ったのですが・・・・。

不思議な国のトットちゃん:黒柳徹子より

ユニセフの視察で行った「アフリカの飢え」をテレビで放送して、ちょとしてから、あるお母さんから手紙があった。「家の子は、男の子で6歳です。クリスマスのプレゼントをサンタさんに入れてもうらう靴下に、私も知らないうちに子供の手紙が入っていました。

『サンタさん  アフリカにいってくらさい(下さい)ぼくはなにもいりません』。クリスマスの朝、靴下の中にサンタさんからの返事が入っていました。『ありがとうアフリカにいってくるよ』これがお母さんの手紙だった。やはりテレビを放送することには意味があると思ったそうです。

しかしもっと聞いてみたいことは、その後お母さんはなにかしらのプレゼントを上げたものか、じっと我慢していたものか、これはゲスの勘ぐりなのはわかっているが、かならずお母さんも迷っいただろうから。

2009年7月6日月曜日

郊外のホタルの復活劇


おはようございます。昨晩はもと住んでいた練馬区の西小学校でおこなわれた「ほたる祭り」を見てきました。
15年前位に石神井公園というかなり大きな公園があって、それに隣接する歴史資料館(今は検索してもみつからない)は図書館の地下室にあって、時間的に余裕がある係り員がいて、
そこで長方形の1.5m×2mくらいの水槽でほそぼそと蛍を飼育していました。本当に育つのかしらとも思うほどでした。
昨日は夜7:30からの公開ということで、ビールやフランクソーセイジを食べながらしばらく待っていました。小学生の親子ですから、親にせがんで、親を連れ来ての蛍よりは、ラムネや焼きそばを
食べるのが主目的のようでした。アナンスしても、あまり聞こえません。交通整理の赤い点電灯をみながら、あんな大きな蛍はガリバーの国へ行けば見られるのかと思いながらまた待っていした。
どこに蛍がいるのかが良く分からないので、傍の人に聞いてみました。「ほらあそこですよ。」と指をさされてもまだわかりません。指さすほうには2畳位のネットのテントがみえます。
そこに近づいてみると、中央に30cm角の水槽のような入れ物に50匹くらいの蛍が屯していて、数匹がネットにはりついています。こわがるからフラッシュはたかないでくださいと書いてあります。
私は想像していたのは、蛍をそとに、放つということを思い浮かべていました。期待と現実は相当に「ヒラキ」があります。
 想像するに、ほそぼそと育ててきたのがやっと区民がまられるようになったことでも、かなりの進歩です。これらが、石神井公園の大きな池に放され乱舞するようになるには、池の浄水から大変なことです。西東京にも石神井川で蛍を育てようという動きがあるが、蛍の飼育はやっていない。石神井川の流域の浄化のために、水底のゴミ掃除と、生活排水の浄化問題とかこれは50年は必要なことかとも思いました。
この会にはいれば各家庭でも熱帯魚の小さな水槽で飼う方法も教えてくれるということでした。祭りの
出店の収益金でもホタル事業の資金の一部になるのでしょう。そうしたい意味でも楽しげな親子活動のいい場所にふさわしいのは小学校だなと思います。中学になったらこうはいかないと思います。

2009年7月5日日曜日

マリア・コスタ



おはようございます。知的障害の一人息子も作業所が変わったことから別のグループホームへの移転を考えていて、昨日を面接は終えていて、中旬から1月の体験入居のための、室内見学にいってきました。環境が変わるとかなりの緊張を呼んでいますが、体験させる前に家内のほうがより緊張しています。考えても彼の反応次第とはいっても、より影響のないようにしたいとということを考えても、手だしはできません。今後我々がなくなってからの住処はどうしても、確保しなければなりません。
頼みの綱は、一緒に住む仲間が意地悪とはいませんし、優しいということを頼みの綱としています。

歌声は心をつなぐ・東京書籍:佐藤しのぶとマリア・コスタの対談から

佐藤:もともとマリアさんは宗教関係のご家庭の出身ですか。
マリア;いいえ、私の家はごく普通の家庭であり、男ばかりの兄弟のうち唯一人の女の子でしたから、私がシスターにありたいと言ったとき皆驚き、反対したものです。それに私は、とても活発で遊ぶことが大好きだったので、シスターのイメージとはほど遠かったでしょうね。結局はパードレ・ピオという神父様の許しをいただき、シスターにあることができたのですが、友人や家族みんなが反対するなか、父だけは何もいいませんでした。でもある日、父と二人、自転車に乗って遠出をしたとき、父は私にこう尋ねました。「シスターになることがあなたにとって幸せですか」。私は「幸せです」と答えました。すると父は「ならば私も幸せです」とうなずき、」それ以上何も言わずに見送ってくれました。こうして私はシスターとなり、サレジアン・シスターズの一人として日本にくることになったのです。
サレジアン・シスターズ※とは「青少年の父・カトリック教育の師」と呼ばれたイタリア人の聖ヨハネ・ボスコ(1815~88年)の教育法を受け継ぎ、その信念を教育の場で生かすため、19世紀に設立されたカトリック女子修道会です。本部はローマにあり、世界各国に約1万5000名以上の会員がいます。社会や家庭から見放されていた若者をかれらが納得して行動できる人間に導いていきました。「青少年が自分たちは愛されているとともに、生徒とともにいるということでした。ドン・ボスコはこれを大切にしていました。

孤児の面倒を見ているそうです。
※http://www.salesian-sisters.jp/fma/salesian_honbu.html

いろいろな愛があってエロス、セックス、フイリア、中でもアガぺーは
「敵を愛しなさい」嫌いな相手がいても、せめて挨拶だけでも、微笑みだけでも送ろうとすることでよいのだそうです。これは意識と意志がなければできないことだそうです。
http://www.sutv.zaq.ne.jp/osaka-orthodox/kotopara/kotopara02_09.htm

http://www.seibi.ac.jp/college/ist/ist_it_2a5a.html

2009年7月4日土曜日

わたしの場合の「学ぶ」


新聞の翌月号では「学ぶ」という特集号の予定です。私の場合、当初現役を退いて、3ケ月位は自由気ままな生活が出来るようになったが、それを超えて転進に苦慮しました。

そこで40年も続いている中学の同級会、高校の同級会のほうへの参加してみますと、ガンによる告別式の参加が多いし、健在の人でもなにかしら病気を抱えている。学生寮のほうでは、多忙であった仕事を無理をして片つけて、海外に旅行し、成田から車で帰宅途中、時差による眠気でトラックと正面衝突であったが、軽傷で2月で治癒。本当に万事塞翁が馬です。

私が陶芸を習ったのは、公民館の講座でした。講師は吉田先生で、1回程男の料理教室の先生でお会いしていましたから、陶芸をやっていることは知りませんでした。
そこで学んだことは、陶芸の学び方に、先生が手をとり、足をとりで本格的なものを作るように教えてもらうよりも無心に、素人が作るのは突然才能が花開いたりもあるから頑張ってくださいということでした。素人は、これは無理だろうという怖さがない、たしかにそのようです。それと「上手く見せよう」ということもなく、稚屈には味が出るというこのオダテにほとんどの人がのってしまったのです。
一番初めはコーヒーカップで、粘土の紐でカップの形にしてゆく手び練りでした。それとカップをのせるお皿の制作でした。主にこの程度しか教えていただいていませんが、12人の仲間でこの講座の修了者は、この程度では物足りないでしょうから、あらたにグループを作ってみたらという公民館の伝統的な指導があって、一時的なものではなく、継続することになった。

その後,別の公民館で「陶器の歴史」はこの講師はとても美人でしたので欠席者はほとんどいませんでした。国立博物館までいって縄文土器から、有田・伊万里、備前などなどの変遷具合などを学び、市内にある遺跡の縄文土器の縄模様をどう作るかの講座、近隣の博物館にはかならず土器が展示されている。あちこちでしった雑学がつながってきて面白くなってきました。お手本として、簡単そうに見えるものが、特に小さなとなると犬が豚になったり、そっくりマネすることが難しい。だんだん似て来るが、似せることで、犬の特徴の要点が多少なりとも分かってくる。

陶芸の吉田先生は料理を教えていますが、料理の皿はこういうものが欲しい、ということが作陶の動機だったようです。我々の作品を公民館まつりでの展示するお知らせを通知して来て頂いた時に、先生は盆栽もやっているのでその鉢も作っているとのことでした。我々の仲間には、陶芸教室に通っていた人、絵を描いている人、箱のデザイン、映画を作っていた人、などセンスが優れている人もいます。
私はひたすら、素人の怖さを追いかけていますが、、素人のマンネリになりつつ、もがきながら、マイペースで下手の横好きを続けています。またデパートや博物館で陶芸作品をみていると、どのようにして作るのかとか、縄文土器をみれば古代の人との対話をしているような気持ちです。

写真は調布市にある陶芸教室に見学にいって撮影したものです。

2009年7月3日金曜日

脳梗塞


おはようございます。昨日は親子陶芸教室の応援をどうするかの打ち合わせでした。10のグループによる応援です。

陶芸の仲間Sさんは仕事中に思うように書き難いなと思った。疲れた位にしかと思わなかったので、すぐ病院には行かなかった。

精密な陶芸を試みる人でした。仕事が箱のパッケージをデザインすることだったので、造形力は特に優れていて、例えば籠に布を敷き、リンゴを置いたものを粘土で拵え実物に見えるほどでした。

又面倒見のよい人とで、陶芸室の雑務について、陶芸室の予約・協議打ち合わせ、陶芸窯の利用時期の抽選、粘土(手頃な大きさにカット)や釉薬の手配、公民館まつりの展示、記録など、ほとんどこなしていて、人にその大変さを感じさせないでいた。3ケ月の療養中に、それをカバーしてみると、それらのことが分かった。

先月に復帰したのですが、多少話し辛そうです。聞いてみると、
絵に書いてある海老とかを食べようとしたり、生の肉を食べようとしたりする判断が弱ったりしているとのこと。又あのA子さんのお祖母さんの隣などというと、関係がこんがらがってくるそうです。(こういう説明をできるということは、相当回復しているのでしょうし、家族や医師からこういう指摘を受けて記憶しているのでしょうか)左脳の判断力が劣化しても、右脳の造形力はそのまま、陶芸も手先を動かすのでリハビリにとても良いそうです。
それでも、復帰しくれるようになって一同喜んでいます。

又Sさんの息子さんが、Sさんの指示で保管している道具の受け渡しとか、とても気のつく、娘がいたら婿さんにしたい位の素晴らしい青年でした。

Sさんいわく、一度目の脳梗塞で3割の、2度目で、3割、3度目はどの人にもお迎えが来ると医師にいわれたそうです。

私の叔母は一人住まいですが、近所付き合いの良い人です。隣の人が看護士さんで、叔母さんの歩き方が微妙にふらついたり、しているのは
脳梗塞の寸前だということで、すぐ病院に行き大事にいたらなかった。近所付き合いもとても大事ですね。

2009年7月2日木曜日

大学創設の理念


おはようございます。市民への公開講座で、出席者は武蔵野大学の沿革とか、教育理念知らなかったので、とても参考になりました。
武蔵野市寄付講座
講座名:武蔵野市寄付講座
「(武蔵野)の記憶と現在-日本語・日本学科からの発信-」第11回
学祖のめざした大自然の中の人間教育」山崎龍明先生

高楠潤次郎という武蔵野大学(旧武蔵野女学院という浄土真宗系の学校で、今は大学だけは男女共学)の創始者についての講義だった。
1866年(慶応2年)に広島県三原市生まれ、1945年、敗戦の年に没(永眠はキリスト教でいうことだそうです)。
広島県も御門徒の盛んだったところだそうです。東京帝大、ベルリン大学、オックスフォード大学にまなぶ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A5%A0%E9%A0%86%E6%AC%A1%E9%83%8E
留学の帰途、インドのタゴールと合い、そこの大学の自然に魅せられたという。そこで大自然は人間を養うということを痛感。
この創始者も同様、仏教界が天皇崇拝のため、戦争にも反対できなかったのは講師も痛恨の極みだったと思いますと言われた。キリスト教系の女子学校が盛んなのに、仏教系のそれは少ないのを憂慮して、何とか大自然のなかで女子教育をしたい理想をもっていた。この人はいう理想を持たない人間は堕落するということをいっていたそうです。(鹿鳴館とか、西洋に追いつかねばということが、キリスト教系を受け入れる素地になっていたのでしょうか。明治学院、青山学院、神戸女学院、聖心女子学院、東京女子大学、上智大学、立教大学のキリスト教系に対し、:佛教系は京都女子大学、大谷大学,龍谷大学、駒沢大学、花園大学、立正大学)
1924年(大正13年)に築地で開校、その後西東京市に移転した時のことであるが、昭和4年7月13日の東京日日新聞に、「散りゆく三十六人集」これは古筆で、宮廷に多額の寄付したことで西本願寺に下賜された家宝。それをまだ名前も知られていない学校の建設資金にすることが報じられた。
様々な批判の声があがったが、高楠学長は「教育のためですからやもう得ません」と少しも迷わなかったそうです。しかし昭和恐慌のころなので、思うように寄付も集まらず、新入生徒数もわずかに23名だったそうです。
この高楠さんの全4人娘さん全員が親より早くなくなっている。敷地内に住居を構え、いつでも生徒が相談にきていたそうです。

●親鸞の非祈祷主義:仏を真に徹底して信じているならば、祈りによって幸福を得ようとするのは不合理。祈祷する心理は、仏に対する疑いの心であると。(こういわれもこまりはててしまいます。祖母の念仏は腹からナンマイダという感謝の念が感じられました)
●近代の代表的真宗念仏者である、金子大栄先生(1881から1976)が言われているそうですが、「私達は現実に不安と苦悩との中にあって、なんとかそこからのがれようとしている。私達が求める知識と道徳は、そのために用意されているのである。しかしながら知識はこの身を支えるものであっても、生と死という人間の根源にかかる不安を取り除くことはできない。かえって、不安は知識とともに加わってくるものであると。

2009年7月1日水曜日

石坂夫妻


おはようございます。もうことしも7月を迎えましたね。中村桂子さんの本の連鎖から素晴らしい夫妻がいることが分かりました。

石坂公成・照子夫妻(奥さんは山形県出身)は主にアメリカで活躍されたアレルギー研究の重鎮で、ノーベル賞にもノミネートされたことがあったし、文化勲章などかずかず受賞され、見事にこなした「結婚と学問は両立する」に書いてあったことですが、

日本では私と照子が同業の研究をしていていることで奇異な目を向けられる。何故そうなるのかが分からなかったそうですが、日本の女性の大学教授が「日本では女性は独立の科学者としては認められず、彼女らの業績は『内助の功』のかたちで夫の業績に吸収されてしまうのが常である」と言われた。米国では全くそのようなことはなかった。やはり女性からしたら本当の意味で男女平等になってほしいのでしょう。家庭では逆転しているのでしょうが、社会ではそうなっていない。事実ネットで調べても奥さんの照子さんの功績は記録されているのは少ない。

35年間のアメリカ生活を終えて日本に帰ってきた私が感じることは、日本での女性が伸びられない理由は日米の民主主義の相違にあるのではないか。アメリカ民主主義の大変革は1950年代の後半から、70年代の初めにかけて起こった。戦後の多民族国家の政策は、それぞれの民族がその伝統や宗教や特徴を保ったままで彼らが共有する社会・国家に貢献する道を拓いたことである。それぞれの民族のもつ伝統や考え方を尊重し合わないかぎり、多民族で一つの国を作っていくことができない。人種的偏見をなくすことは“人種の差を認めること”から始まっている。アメリカには“郷に入って郷に従え”という言葉はない。またマイノリティや市民権のない私の意見も真剣に聴くし,一般民衆も自分たちの職業やコミュニティを守るのは政府ではなく、自分たちにあるという自覚がある。(しかしながら、国外となるとイラクやアフガニスタンの考えを認めようとしないのが国益優先のためか分からない)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%9D%82%E5%85%AC%E6%88%90